見分けがつかnAI

なぜかとにかく6本指にしたがるAIイラストですが、指が映ってないとわからないなぁ。

多用されている陰落ち菱形ライト鼻抜き顔、はもはやAIの肖像みたいな気がしますが、アニメ調に近い背景なしバストアップなどは、もう私には見分けつかない。

人間の手からではありえないような不整合が(それも見た目だけは美しく描き込まれた)、見た瞬間に無意識で不快に感じられるから、生成画を見るとムズムズするのだと思います。不整合が目につかないくらいシンプルな構図だと、パッと見の不快感がないから、穿って見ないと気づけない。

破綻が無くとも、個々の要素がお互いの間に何の関係も持たない(例えば、顔の造形、指の表情、肌の質感、服のディテール、配置されたオブジェクト、背景・・・絵は足す方が容易であるから、それぞれの驚く程の技巧が、全てにおいて凝っているのだと思わせ、それがある種の統一感を与えるが、しかしどんな意思を持って各要素をそうするのか、ひとつの統一された主体性をとんと感じない不自然さがあるのだ。)故の、絵の冷たさは感じますけど。

生成画を素直に受け取れない要因としては、その絵の優れた部分は、誰かの作品からの頂きものである・・・という注釈が常に付随するから。

ですが、美術表現の模索とは、先人より受け継がれ、様々な人に試みられている美術表現の発達史を、現時点まで時間的圧縮したものだと思えば、AIがやっていることは人と変わらず、ただそれを爆速で実行できるというだけの話かもしれません。(生成画1枚に、間接的にあらゆるアーティストの技術が凝縮されている)

・・・というと益々、己の存在意義が行方不明になりそうですが・・・。絵描きの本能としての承認欲求に従わなければ、わざわざ自分がやる意味もないですね。


実際のところ、人の手によっても、組み込み易い作風はこぞって使われます。修飾画においてはミュシャなんか最たるものですが・・・情景画においてはある時期から吉田明彦氏の方法論ばかり見えるようになりました。
吉田風に限らず、まるで同じスクール出身かのような絵描きのまとまりが、各(国の)基準スタイルを元に国境を越えて形成されている。みんなが扱える技巧なんて、みんながそれぞれ描こうとするものと本来何の関係もないと思うんだけどなぁ。
いやしかし画期的ではあります。大友克洋氏がかつて(今もか?)誰もの先生であったように。私はAKIRA(映画)を教養として流し見した程度ではありますけれど。まさにスクールで誰もが「大友スッゲーぜ、皆読めよ!」と言っていたのを、ヘッ、と思ってむしろ見てないんですよ。あ、でも鳥山さんのドラゴンボールは最近ネットのジャンプで読んで、成程こりゃうめえや。と思ったのでした。
まあ、なんか今更、履修のつもりで求めるのもなんかね。ある日無性に読みたくなるとか、そんなタイミングを待ってもいいでしょう。


それはそうと、ライブドローで有名なキム・ジョンギさんが亡くなっていたことを知りました。

彼は、人類がものを描き出す能力の一つの到達点を見せていたと思います。

正直、いつも何かを描いていられる人が羨ましい。

授業中も構わず、どの時間もノートに顔突っ込んで何か描いている・・・という人が、どこのクラスにも一人は居ただろうと思います。私はその手の人に引け目がありまして、彼らこそ絵描きの魂・・・承認欲求とは別の、根本的な衝動・・・を持っている人、真の絵描きたちです。

私は彼らが描いてくれないものを、不貞腐れて作っているだけですからね。


これは一過性の低テンション


至らせてくれなければ、神の手だろうと機械の手だろうと、役には立たない。


絵というものを見るときは、ビジュアルそれそのものよりも、「こんなことを考えて、描き表せる人がいるなんて、世界って素晴らしいーー!」ということを感じたいのかもしれません。

以前から、エッチな絵は作者の意思、人格が表されすぎるとその目的では使えない、と書いておりますが、なさすぎてもダメなのだ。