人生で最も辛いことはまだ決められないけど、人生で2番目に辛いのは、行きつけのラーメン屋にバカヤロウどもが来店したときでしょうね。
奔放なおしゃべりくらいは、まだいい。(メシの味が5%くらい下がるが。)
ピッチャーで遊ぶな・・・。まだ、ガラガラが手放せないでいるのでしょうか。
しばらくすれば、結局はスマホという最高のおもちゃに落ち着くのが、まだ現代のマシなところか。
不思議なのは、これだけ晒しとか特定が瞬時に広まる世の中でも、ちっとも委縮効果にならず、却って、それらに怯えない(というか、全く無頓着な)姿がカックイイ理想像であるように考えられてるフシさえあることです。
それは多分・・・そういうのの代表選手が稼いでいるからで、儲けてるんだから、これが正解なんでしょ?だったら俺も、という、偉い人の形から入れメソッドを実践しているからなのでしょう。簡単に言えば憧れです。
いったい、かっこよさとはなんなのでしょう。自分らしさとは・・・。
正しいものに憧れよ。というのは傲慢な気がします。
ただ、何が正しくないか、の方向で言うならば、世界は自己の延長ではないし、実写もしくはリアルタイムの人間活動だからと言ってAVと同じく「現実」ではないのです。
それを、これぞ現実だ。俺の見ているもの”だけ”が現実だ。そんな風にしか視られないなら、父の中へ帰って他のきょうだいに道を譲りなさい。
ね。
何がオトナっぽくて、何がコドモっぽいか、という視点が最早、共有できなくなっている気がします。全国のオトナの代表ですら上記の有様です。映像にはレーティングというものがありますが、議員関連の映像こそR50くらいの代物だと思うんですよね。あれを見ることでいいことなんかまるでないでしょう。
偉大なる指導者が編み出した反面教師という言葉がありますが、現代人にとって(現代の若者、としたいところですが、それだとまるで私がジジイみたいな口ぶりなので。)、反面であるべきものが、当たりまえに教師となっているように思います。
はぁ。。。
こう書くとなにか差別的発言のようですが、認知機能が低下したご老人がこどもがえりしているのか、逆に若者の認知機能が低下してご老人のようになっているのか、あまりに相似でわからなくなるときがあります。
脳トレにアハ体験、というものがありましたね。解けた瞬間も快感だけど、解けずに悩んでいる状態が脳にいいんだとか。
なれば、葛藤すべき対立項を棄て、すぐに正解に飛びつく現代人の脳はトレーニング不足なのでしょうね。(なんて言っちゃっていいものかどうか。←ブーメラン)
ギャクバリだとか感想ですよねだとか、流行り言葉がありますが、そういうのを操るカリスマに「くぅ~かっくいい!」と憧れて真似をしてるんじゃ全ッ然ダメで、あんたこそ、ギャクバリだ。あんたの考えこそ、ただのあんたの主観だよ。と、あなたの信じる彼らがやるように、逆らってみせるマインドを持ちなさいと。それが実践であって、それが出来なきゃ、所詮はクソガキの反抗期止まりなのだと思います。
ふう。。。
ぶっちゃけ、父上の体内のきょうだいたちにバトンタッチしたいのは私の方ですよ。まあ、産まれたからには自分第一主義、今この瞬間俺が気持ち良くさえあれば人生ハッピー、みたいな、クソ信条を掲げる気もありませんので、なんとかきょうだいたちの分まで静かに生きます。
・・・なんにも気にしないような「状態」になれれば楽なのでしょう・・・俺は生ハムの原木持ってるもんね。というの流行りましたよね。いいもん、俺んチは窓のサッシにコクサちゃんがいるもん。毎日愛でるもん。
タイトルについて・・・Dreadful Queer Numbheads でもよかったのですけど、どうひねろうが、ホントはどういう意味なのかわかったもんじゃありませんからね。
要するにバカ・マヌケというのが、身勝手バカなのかウスノロバカなのか滑稽バカなのか、どんなイメージを指すのかというのは、本場で暮らさなきゃわからんでしょう。
一応、意図するところは、前者d-q-nが「ノータリンの知ったかぶりオツム」、後者d-q-nが「不快なキチガイバカ」でありますが、意味が通る侮蔑表現になっていると、いいですね。ネイティブの方は何点くれるでしょうか?