活力が出ないのにまかせて、ネットをブラブラしていたら、またひとつ己への箴言的サイトへ当たってしまった。
こちらの、木下和郎さんの「連絡船」です。「文学」について、人間の財産としてのそれを守るために、人間そのもののために、非常に実直に言葉を尽くしていらっしゃいます。
私は普段文学に触れてもしない、何か考えてもいない殆ど門外漢ですけれど、人間が何かを表現する分野においては必ず通底するものを見出せます。このサイトで語られている「文学」についての文章は全てそのまま「美術」に関してのものだと考えることが出来ます。
もっとも、絵というものも、一点モノの絵画の売買よりも、市販のメディアで消費されるものが主流ですから、わざわざ読み替える必要のない話題であります。
ご自身が、自分の言うことは繰り返しになる、と書かれている通り、サイトの案内・立場の表明にあたる「はじめに」において、表現活動全般に通ずるであろう大事なことがおおよそ全て、どこまでも熱心に、語られています。
この方が、書店のPOPによる売り込みの元祖”仕掛け人”であるというのも興味深いことです。そしてそれが、ただ商売の成功例としてだけ模倣され、木下さんの本意を離れたところで乱用されている、ということも。それは全く、書店、いえ何らかの販売店に限った話ではなく、ネット上の「全てが」そうだろうと思います。
(少々脱線しますが、サイトの見た目が似ているということもあって、御津羽さんのサイトに似て見えるんです。それも悲しいことに、業界の衰退を危惧して警鐘を鳴らすも、記事の書かれた当時・・・およそ20年前・・・から流れが全く良くなっていないことも相似である。)
表現が機械技術にとって代わられようという今日において顧みたいのがこれらの文。
・・・「芸術作品」とか「文学作品」などの定義を私はしませんが、こう考えてください。それを損なうことが、「人間」を損なうことになるものなのだ、と。人間はそれを必ず守らなくてはなりません。それは人間が「人間」であるからこそ生まれたものであり、「人間」の証であり、それなくして人間は「人間」でいられない。もちろん、それなくしては、あなたも「人間」でいられません。あなたも、あなたの周囲のすべてのひとも、あなたの次の世代、またその次の世代のひとたちも、です。・・・
・・・いい作品とダメな作品という違いは、あなたや私の主観にかかわらず、厳然としてあります。そうして、私は「作品」というのが、作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡だ、と、これも口を酸っぱくしていいつづけてきています。作家の「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合い・たたかいの軌跡でないものを「作品」などと呼んではなりません。
・・・小説作品というのは「なにが描かれているか」より「どのように描かれているか」が大事だということです。これを説明するのは厄介で、これが厄介だということがそもそも問題なんですが、最大の障害は ── 私はだいぶ手加減していいますけれど ──「どのように描かれているか」を通して「なにが描かれているか」を読まなくてはならないのに、「なにが」だけしか読まない・読めないひとの多すぎることです。その「なにが」を支えているのが「どのように」だというのに。・・・私が疑うのは、単に「なにが」だけしか提示していないものを読むときに、多くの読者が勝手に作家の非力を、いかにもありがちなイメージで ── すぐにわかる、わかって安心できる、すでに自分のなかにある安手なあれ・それを当てはめながら ── 補ってやっているのではないか・・・ちゃんとした作品、「どのように」のきちんとできている作品はもっと自立したものであるはずです。・・・読者のごまかしに手伝ってもらう必要など全然ありません。・・・しっかりした「どのように」がともなってはじめて可能になる「なにが」の表現ということを考えてほしいんです。つまり、読者がいまだ知らないなにか、名前をつけようと考えたこともないなにか、自分のすでにもっている(そしてすぐに取り出せる)どの観念にも落とし込むことのできないなにか、それが、作品の「どのように」に支えられてのみ、その作品一回きりの「なにが」として立ち上がってくるということがあるはずなんです。そういうことの実現こそがほんものの作家の仕事じゃないでしょうか? そして、そういう作品を読むことこそがほんとうの読書なのでは?
これが単に機械生成から「人間」を守ろうというだけの話でもなく、「どのように描くか」というたたかいを避ける人がいかに多いことか。人工知能への外注を待つまでもなく、みんなで作り上げた、売れている=優れている、という指標で以て良いとされるものに、いかに安易に・・・と言ってもたいていの本人は生き残りの為に真面目に”売ろうとする”ゆえなのだが・・・作品を作品にするものである「どのように」の部分を託してしまっていることか。
商業美術において最もポピュラーな題材である美少女画(この点に関してはイラストも、いわゆるファインアートも、そう違いはないように見えます。キャンバスに描かれるだけでアートであるはずがないが、アナログを無条件にありがたがる人たちにはそれが分からないのです)においては、「なにが」だけで十分で、むしろ「どのように」など、受け手が勝手に補ってみるのに邪魔になるだけなのです。
ゆえにもはや、「どのように」というテクニックそれそのものを「なにが」であるように扱って、それが定着しては「なにが」と「どのように」の表裏をでんぐり返して一時の真新しさを提供する循環の仕組み・・・まるで雑巾を折りたたみながら使うようなことになっている。それは余地を減らしながらも半永久的に続けられるでしょう。
その指南者の多いこと多いこと・・・(どの業界でもそうであると思います)。技術への「どのように」の外注が容易になるのと、技術へ代わられる危機感との相乗効果で、今なら楽に稼げますよ、さあ今のうち、今のうち、行動しない奴は負け組・・・と煽るのですね。「あなたの経験、それに基づく信念、理想なんてくだらなくってなんの意味もありません。そんなものにしがみついたってなんの価値も生み出さないことが”経験的に”お分かりでしょう。あなたは、ただ先人の成功モデルだけを見てそれに倣い、反響の多いものに機械的にテコ入れし、それを繰り返せばいいのです。稼げる内に。稼げる内に。」生活上、それは正しいとは思います。
ついでにいいますが、「文章を読んだり書いたりするのが不得手の」ひとたちは、自分より力のある書き手によってなされる、いわゆる文章添削ということの効果を信じてありがたがっているだろうと思うんですが、これもおかしいんですよ。文章添削の効果を信じているひとたちは、「なにを描くか」と「どのように描くか」を別々に考えているんです。これが切り離せないものだということがわからない。もし、あなたの文章を誰かに徹底的に添削してもらったとしますね。そうすると、あなたが描こうとした「なにを」までもが徹底的に変更を加えられることになるんですよ。しかし、添削された自分の文章を読んで、感心なんかしているあなたは、そのことに気づかないかもしれないんです。そういうことがあります。そういうひとたちがたくさんいるので、「文章の書きかた」についての本が後を絶たなくて、しかも売れているわけです。
私には、「新刊やベストセラー」というと、すぐに「宣伝」ということばが浮かんできます。あるいは、「みんな」ということばが。そうして、「宣伝」は一時に「みんな」を誘い込もうとするわけです。「宣伝」のかかっているわずかな期間に「みんな」を誘導するということです。私はその「わずかな期間」と「みんな」というのをほとんど憎みさえしているのじゃないかと思います。私がその反対に持ち出すのは、「いつでも」と「てんでんばらばらに」ということです。これに限らず、なににもせよ、ある一定の期間に「みんな」が一斉に動き出すようななにかがあったら、もっと警戒すべきなんじゃありませんか?
私が外側からその事態を眺めているかといえばそんなことはなく、ゆえに耳が痛いのです。どれほどそのモデルに心惹かれることか!それがどれほど私を苛むことか・・・。「苛む」などといっぱしの芸術家みたいな懊悩ぶりたいわけじゃないが、どんな末端の表現者にも・・・末端であればこそ・・・悩みはあるはずでしょう。私は葛藤なしに表皮の張り替えを繰り返すだけの生産を「安易」と書きましたが、安易というならやってみろよ、そらやってみろ。そういう言葉が常にカウンターとして自分に返るわけです。
その声に抗ったところで一文にもなりゃしないのに。手先から生まれるものがただ自分の心に適うことだけを報酬としてやれと?大多数が求めるものとそれが一致すればどれだけ”楽な”ことでしょうか。まったく、くだらないですよね。自分の見たいものなんかに誰も興味はなく、人が見たいものを提供すべきなのに。
けれど、どうしたってそれが「美術」にとって・・・もっと単純に「絵」にとって、それは自分の絵というだけでなく、私が受け取れる「絵」全体にとって・・・正しい考えだとは思えない。守るべきものは一部の天才たちに任せて、自分はひとりの生活者になっていればいいのか?理想があるにしてもそれを隠し持ったままで?自分の真に見たいものが一向に現れないと嘆息しながら?そんなものに意味はないと諦めて?
現実を見ろよ、というのは全く、もっともな話で・・・だけどね、なかなか勇気が出ないのですが、
ある作品を「よい」と評価するひとは、必ずそうでない作品を知っています。そのひとは作品を評価するなにがしかの基準をもっています。それで、その基準が埒外にはじき出すものが必ずあります。ここでの「そうでない作品」というのがまだ十分に譲歩した表現だということも断わっておいた方がいいでしょう。なぜなら、それらのほとんどは「作品」にすらなっていないからです。そうして、世のなかには「作品にすらなっていない」ものがゴマンと流通しています。
・・・作品の「よい・悪い」と自分の「好き・嫌い」とをごっちゃにして、「いや、そんなのはひとそれぞれだよ」というひとが(ものすごくたくさん)います。はっきりいいますが、この点に関してその常套句「ひとそれぞれ」を用いることは罪悪ですらあるだろうと私は考えています。それは「すり替え」です。・・・
・・・好みというのはしかたがありません。それはもちろん「ひとそれぞれ」なんです。しかし、それとはまったくべつのところに作品の「よい・悪い」の基準があるんです。
・・・私はあなたを含めてたくさんのひとたちが「ウンコ」を「カレー」だと思って食べている悲惨な状況を目の当たりにしているのです。それは「ウンコ」なんだ、食べるんじゃない、と訴えているのです。しかし、あなたのいいかたを借りれば、私の「職場の人たち」も「奥さん」も「義理のお母さん」も「近所の人たち」も「ウンコ」を頬張りながら、「このカレー、ほんとにおいしいね!」とうなずきあうわけです。私だけが「ウンコ」を食べません。私だけが変人ということです。どうして私にだけは「ウンコ」と「カレー」の区別がつくのか、とあなたがたは問うのです。私には、どうしてあなたがたにその区別がつかないのかがわかりません。・・・いや、私はどうしてあなたがたにその区別がつかないのか、よくわかっています。あなたがたに勇気や信念が欠けているからなのです。・・・繰り返しますが、「勇気や信念」なしに読書することはできません。「勇気や信念」なしに自分の読んだものの「よい・悪い」を判断することはできず、そもそも当の書物が「作品」たりえているのかを判断することはできません。
なんだってそんなものをありがたがるんだ?そんなものは、クソじゃないか・・・。そういいたいものがいっぱい溢れています。ここでクソだというのは、悔しくも出来がいいと認めるがしかし自分の嫌いな作品を、負けん気からそう評するのとは別にしてのことです。当然私にも好みはあります。そういう基準は持っているべきだとも思いますし。
そうではなく、絵に見せかけているだけのものを、商品の顔にするとか(それ自体商品として売られているものを買う好みは否定しません)、あまつさえそれに学ぼうとするのをいうのです。
アナログを無条件にありがたがる人たち、と書きましたが、一般のデジタル鑑賞者たちが(無意識に)感じている郷愁、デジタルへの反発、そういうものがないはずがないと思うのです。(そういう反動の芽もリメイクやらオマージュやらで、受け手の知っている「作品」に見せかける形で、刈られていくのですけど。)
以前にも同じようなことを書いていると思いますが、テクノロジーへの技巧の委託は、相対的に表現者の弱さを目立たせるのです。かつて、絵の具の滲みや飛沫などで作り出す無作為な図像を、神の手によるものだとする考えが・・・これはうろ覚えなのですが・・・あったことと思いますが、作為と無作為の問いは別にして、そう見ることが出来るのは、現実の物質が生み出す効果が豊かで、美しいからなのでしょう。
私はそれをデジタルに思うことはありません。完ぺきに整然とした美しさを生み出せるのはデジタル特有の優れた性質です。が、それを表現と受け取ることは私にはできませんし、むしろ嫌悪しています。いいかげんな鉛筆画が作品ではなく、紙とその上に乗った黒鉛に過ぎないのと同じことで、エフェクトはただのエフェクトであり、手順はただの手順であり、色はただの色であり、画像素材はただの画像素材であります。いうなればテクノロジーの機械的洗練さを、技巧の洗練を厭った作者の筆致や構成の稚拙さで台無しにしているようなもので、むしろそれが主流の制作態度となってもいるように見えます。
ここで卑怯にも私は、具体例を挙げて批判することをしないのですが・・・。
ただ、私が「なにを」「どのように」描いているかで、それは示されていることと思います。
いえ、ひとつ言っておくなら、私はフォトバッシュが大嫌いですよ。いかに作家個人が優れていようが、そうして作られた「もの」を私はクソだと思うし(作家をクソとは言いませんけど)、木下さんの言葉を借りるならそれは「作品にすらなっていない」ものだと私は思うのです。
・・・基本的に「ある描きかたを選んだならば、全体がその描きかたで統一されていなくてはならない」と考えているわけです。そうして、「ある描きかたを選んだならば、その描きかたで描けないものは描いてはいけない」とも考えているんですね。で、「あることを描こうと思ったら、最もそれにふさわしい描きかたをしなくてはならない」と考えている。ということは、「あることを描こうとして、それにふさわしい描きかたを始めたならば、その描きかたのせいで、べつのあることは描くことができなくなる」ということです。(それゆえ、ある作品を紹介するときに作品本文からの引用をすることは非常に有効である、と私は考えます。つまり、部分を取りあげることが、全体を逆に照射することになるからです)。
作家にとっては、「なにを描くか」と「どのように描くか」がそのように拘束しあうわけです。ところが、世のなかで「作品」として流通しているものの多くがこの拘束を全然理解しない書き手によって書かれています。そういうものをもてはやしている読者も、この拘束を全然理解していません。実状はこうです。世のなかの大多数の書き手も読み手も「なにを描くか」「なにが描かれているか」だけを問題にしようとします(「短く簡潔に」、あるいは「〈みんなが読む本〉を読む」を思い出してください)。それは端的に、両者に力がないからです。
作品にとって大事なのは「なにが描かれているか」よりも「どのように描かれているか」です。「どのように」を横着して「なにが」だけを追うようなものを作品とは呼べません。これは最低ラインですが、クリアしているだけで大変なものです。少なくとも、これをクリアしているものを私は「よい」というでしょう(「嫌い」だとしても)。
「どのように」を横着して「なにが」だけを追うようなものを作品とは呼べません。
作者の横着もあるでしょうが、おそらくは販売側から「この素材を使いなさい」と指定されることもあるのだろうと思います。商品に統一感を持たせ、また早く制作物を上げさせるために。果たして絵描きとして、つまらなくはないのだろうか?侮辱だとは少しも考えないのか?
もちろん、商品として使えればそれでいいのだろうし、そうして作られたものを喜んでいる人たちにとって、何が「作品」だとか何を「絵」と呼ぶだとかの問いはどうでもいいことでありましょう。だって、俺はこれをいいと思うんだから・・・。私はそれに抗する言葉を持ちません。ただ、絵描きの意思から作り出されたキャンバスという宇宙に、全くの外から現れた異物が入り込むことを個人的に許せない。ムカつくことに、初心者よりも、上手い奴らほど己の器用さを誇るようにそういうことをやる。彼らはクソではないが、しかし、全てあんたの手でやればこれは「絵」になったろうに、どうして宇宙を乱すようなことをするのか、余計なことしやがってと、恨めしく思うのは確かです。そしてそういう作り手たち、それを褒めたたえるムーブメント、それを売り込みやすくする市場、そこに並ぶものを全て嫌いになる。
手引きの溢れかえった、なんの手法を使おうが同じことで、「どのように」を「手法」で済ますなんてありえない。手法はただの手法です。その手法の習得に何の試みも必要とせず、ただレシピ通りに操作するだけで(見た目上は)出来てしまうデジタルの性質が、余計に「どのように」への関心を奪う。みんながそんなことをしている。20年からの絵描きだろうが、今やそんな手法の虜である。いくら流行りがあるとはいえ・・・
誤解されるかもしれないけれど、私はCGは好きです。憧れてもいます。広義ではデジタルイラストをCGと呼びますが、ここでいうのは3DCGやVFXのことです。何をどのように描き見せるかに注意が払われていれば、何を使って作られているかは問題ではないのです。ただ技術上の手間とか拘りにしか注意しないで作られた、いいかげんな見た目のものが嫌いなのは、なんにしても同じです。技術を見せたいのなら技術だけを展示すればいいのだ。そういうものの寄せ集めをアートだと勘違いした人間が、その技術的「すごさ」に感心してしまう人たちの反響を受けてその気になる。あるいは、最初から技術だけで騙す気でいる。私にとっては全く面白くない。
どんな発言にも、受け手の反応を待つまでもなく、自分自身によるカウンターパンチが用意されています。全く、こんな文章は、末端で無意味にデジタル2次制作をしている人間が書くべきことじゃあないんですよ。
木下さんのように、この「私」、「私の正しさ」のことなどどうでもよくて、「作品」「文学」「人間」の為に勇気や信念で以ていうのだ、というのでなければ・・・。愚痴で終わってしまう。
巷に溢れる信念のない制作物を、こんなもんはクソだと唾棄しながら、それでも「こんな自分よりは」マシなんだと、形にするだけで偉いんだと、いったい誰に向けて言い訳の謙遜を頭の中で反響させているのか。でも誰も、尊敬する人でさえ、少なくとも表向きには、疑念を示さないのだから・・・生活者しか存在しないのか?より成功した生活者しか目指さないのであろうか・・・?
それとも、私の感じ方がおかしいのだろうか。低レベルなのであろうか。
もし、「青臭く」見えるなら、あなただって本当は、「作品」の不足を嘆いている人でありましょうに。
ひとつ、いっておくが、我が言わずして誰が言おうか、という態度を、「得はないんだけど」とかいって清貧清廉な賢者ぶりながら身内受け思想のよしみで信者が喝采するためだけの低劣洗脳文章を連載しているようなおとなにだけはなりたくないんですよ。
私は無私であるわけじゃないから、私と得られるもののために、それを得るために言うのです。
考えてみれば、「なにを描くか」と「どのように描くか」とのせめぎ合いを厭うのは個人に限りません。
せめぎ合いを外注するから心惹かれないのです。なぜ、描こうという意思に何の関係もない他所から来たものに任せられるのか。むしろそれを新風だと喜んで迎え容れられるのか。ポン付けした「どのように」は「なに」でしかないんです。「なに」の羅列には全然興味がわかないんです。
そんな文句ばかりの口ばっかりで、消費を支えないやつは客じゃない、引っ込んでろ、悔しければ自分でやれ、やらないなら懐古でもしていろ。
でも多くの人が消費を支えているだけで、その「作品」を、そしてまだ見ぬ「作品」が産まれるのを、支えているわけじゃないでしょうに。本当はマンネリで、天才が来れば喜ぶが、瞬く間にそれを食い尽くして、飢えるどころか、消費材として飽食する。
それこそ自分で作らないなら、消費の仕方を考えろよ、ということです。