シャドウコリドーと恐怖

久しぶりに1作目を遊んだのですが、やはりホラーとしては1作目の方が出来がいい。
2の方は、アクションゲームとしては前進したが、ホラーゲームとしては後退した。

これは私の恐怖感に基づく評価である。恐怖とは勇気によって対峙するものである。

例えを挙げてみます。

行く手に虫の死骸と思われるものがザァっと敷き詰められた床があるとして、私は渡りたくはありません。
乾燥した死骸を踏みつけながら歩いたところで実際的な害はほぼないだろうことは頭では分かります。
しかし、なにか実害的なものを超えた得体の知れない心理的抵抗を感じて踏み出せません。
ためらっている内に、私は足元の無数の死骸の中の一本の脚がピクっと動く様を見てしまうかもしれません。
触角がそよ風に揺れるのを見てしまうかもしれません。ああ、もしかしたら、どこかに生きている奴がいて、私が踏み出した途端にガサッと音を立てるかもしれない。想像してしまってますます進めなくなります。
たとえ、いくつかが生きていたとして、やはり踏みつけながら歩いたところで大した害はないでしょう。
エイッと気を奮わせてさっさと渡ってしまえばいい。せいぜい後で足を洗うだけで済みます。
靴を履けばますます問題はないでしょう。
ところが自分の不安な想像が自分の行動を縛ります。実際的に被る損失がどうのという問題ではありません。なにか得体のしれないものが潜んでいるとか、見かけ以上のことが起こるだろうと予想できてしまうことがイヤなのです。
私の考える恐怖はこういうものです。

これが直立した針や、剣先が並んだ床ならどうでしょう。どう見ても渡れそうにはありません。
この場合の心理的抵抗というのは、踏み出せば足を貫いてしまって、実際的に渡りきるのは不可能だろうという諦めです。
なにか解決するための方法が必要です。
板でも持ってきましょうか。丈夫な靴を履きましょうか。
板を敷いてみると、十分に安定していますし、体重を掛けても壊れそうにありません。油断をしなければ十分に渡りきれるでしょう。
しかし、有効な手立てがない場合は、諦めるしかありません。不可能なのだから、進もうかどうしようかという葛藤は心に起こりません。
無策で進めば串刺しになってしまうだろうという想像は、恐ろしくはありますが、ただ目の前に投げ出されたありのままの現実に過ぎません。見かけどおりの予想に過ぎないのです。

前者が「1」、後者が「2」です。

虫の例えを出しましたが、両ゲームでの虫型障害の扱いを比べてみても分かるでしょう。
「1」での面蟲は、パッと見、ステージで見かける無害なお面と判別のつかない姿ですが、プレイヤーが近くで動くと急に羽音を立てて存在を主張し、やがて襲い掛かってきます。しかし、プレイヤーがしゃがんで静かに動く限りは脅威はありません。

「2」での人繭蛾は、似たような性質ですが、一目で認識可能な固有の見た目を持ち、こちらが静かに動いたとしても、距離が近いと飛び立ち、襲い掛かってきます。狭い一本道に居るようなときは避けようがなく、道具を用いない限りどうしても襲われてしまいます。

なら、「2」の方が強くて、「1」はヌルいじゃん。人繭蛾の方が、出来がいいんじゃないの?
確かに、障害としての機能は「2」の人繭蛾が勝ります。同時に、ただの障害になってしまった、ということでもあります。
例えに挙げた針の床のようなものです。もう見えているし、どうにかしないといけない、もしくは避けなければならない、とわかりきった存在になってしまいました。

「1」の面蟲は確かに、こちらが静かに動けば害はありません。一方その性質から、他の敵に見つからないように静かに動いていて、ふと横を見たら、目と鼻の先に面蟲が止まっている!とか、明かりを消して部屋に逃げ込み、敵をやり過ごしてから点灯したら、そこに照らされる面蟲が!という状況が起こり得るのです。
そこから、柱の裏に面蟲がいるかもしれないから静かに進もうとか、行先に面蟲が見えていて、敵が来たらまずいけど、思い切ってここはしゃがみ移動してみよう、といった決断に発展します。
つまりは勇気の発揮です。

これが、「2」ではないのです。こいつがいたら進めないじゃん、どうせダメージじゃん、というのがわかりきっていて、プレイヤーはペナルティを受け入れるか、何かしら対処しなければなりません。この脅威を完全に無効化できるアイテムがあるのも、障害という印象を強めます。
そこで問われるのは勇気ではなく対応なのです。

「2」でのゲームデザインは、全体にこのような傾向が見られます。
明らかにされた脅威はリスクではなく、進行上のペナルティなのです。

敵からの察知を知らせるノイズ、出現を知らせる叫び声、避けようがない脅威、それに対応するアイテムと、「2」は「1」に比べてわかりやすいシステムになっており、ユーザーへ親切になった反面、得体の知れなさは減ったし、そうしたわかりやすい脅威が組み合わさることで、手持ちの道具で模範回答ができるか、さもなくばリタイアか、という、結果が見えてしまう単調さにもつながっている。複雑な要素が、必ずしも複雑な選択肢をもたらすわけではない。
「1」でも脅威に対応するアイテムを必要としないわけじゃないが、まだ裸の勇気を奮う余地があると思う。

エリアごとに構造を覚えることが出来た「1」に比べて、「2」ではより細かい単位のランダムマップになりましたが、それと引き換えにして、マップの構造や仕掛けのバリエーションは減っています。
例えば、トラップ部屋で敵の追加と引き換えにアイテムを取るかどうかとか、エリアの立体構造を覚えて使うとかの、選択の幅が「1」にはありました。
「2」のマップは遊ぶごとに完全に姿を変えますが、それはある意味で「ランダムであることを知っている単調さ」であって、どういうパーツが来るかの射幸心的な性格が「1」よりも強まります。今、何を選択したからと言って、それがどうなるのか、この先もランダムなんだよな、ということです。高難易度で要素が増えるほどそれは顕著になります。

要素が単純なほど、どう行動するかの意思が問われるといいましょうか、ある程度の見通しが立たないと、意思というのは発揮できないものです。
どこまでの予測が立って、それをどう乗り越えるか、という意思を持たせるための情報提供の配分が、少なすぎればびっくり箱で、多すぎれば対処になる。そのどちらでも勇気は問われることなく、恐怖を乗り越える体験は与えてくれない。

私は、乗り越える快感を、おそらくホラーゲームには求めているのだと思います。

「2」から「1」をやった人は、両者をどう見るのだろう。

因みに、私が「1」で最も怖いのは外縁ステージです。
ヒグラシの回廊もですが、日なたがあるのがいい。明るい場所にバケモノが出るのがいいんです。

トンネルが怖いのは暗いからです。中に何か居るかもしれない。何か起こるかもしれないから。
その恐怖に耐えて、日差しへ通り抜けたとき。ホっとしたのも束の間、クマなんか歩いてたらどうです。
安心を突き崩される恐怖。

ああ、早く明るいところへ出たい・・・。そういう欲求を駆り立てておいて、日差しの元でバケモノが当たり前に闊歩しているのが見える。
日差しも地下道も備えている外縁は、まさにそのコントラストが好きです。

ついでに、警鐘の徘徊者の追跡バグ?が起こりやすいような気がします。ゲームの敵キャラというのは、タネが明かされてしまえば要は決められたように動くプログラムですから、その者自体の恐ろしさはいつまでも続きはしないものですが、こいつはたまに逸脱してきますからね。
ドアの向こうで接触して、すぐこちら側へ引き返せば簡単にやり過ごせる、というのが分かっているからこそ、スイーッと戸を開けて入ってきたときには、な、なんでこっちに来るんだお前!って、ほんとに焦ります。

これも、前提を突き崩される恐怖です。それで足が遅いのがいいね。バーンッって出てきたらただのびっくりだけど、ひと息ついたときにスーッと来るのがいいんだよ。

「2」のトラウマも無限追跡ですが、あれほど存在感を主張せず、かといって穢人ほどムッツリではなく、仄かな明かりとともに、何気なーく、しかしいつまでも付いてくる。いやあ怖いです。
見つかったら泣き女ミサイルが無音でぶっ飛んで来るし。