むらかみ

漫画・アニメを、単にポルノとか言われると、余計なお世話だ、バーカ・・・と言いたくなりますが、逆に、これはアートだ芸術なんだ(職人技、という意味でなく、芸術。)、みたいな運動も胡散臭いと思ってしまいます。商業芸術に付加価値が付くのは良いことのような気がしますが、俺が新しい価値を見つけたぜ、という専門家サークルの権威レースの出しに使われたあとで、「価値あるもの」と「無価値な卑俗」とが分別されはしないかと。文化史上の流れを研究するのは興味深いことだと思います。が、需要と供給の間に余計な力が加わって欲しくないんですよね。褒めるも貶すも、それを利用する人たちはすぐに出てくる。しかし、彼らにエサをやらないために、研究を慎め、というのも知性的ではありませんが。

私がアート的な視点の代表として先ず思い浮かべるところの村上隆さんは、今のところは嫌われているようです

私が村上さんについて思うのは多くのモダン画家と同じで、その思想的アプローチに全く到達できないので、別次元の人という感じです。なんで、敢えてそうするんだ?と。ただ、即物的な観点で、2次元界のひとつの様式的な、色相フルレンジの描き埋め系極彩表現の本家、として見た場合、そのサークルは個人的には好きではありませんので、勢いづかせんじゃねえ、とは勝手に思いますけども。(これ、ディスってるだけかも。)

と、以前はそういう気でいたのですが、この記事を見るに、ここまで来ると、彼のスタイルはサブカルチャーと日本芸術史の性急な融合と思われてなりません。

「美術史上の必然」って、未来に振り返られたときに感じられるものじゃないのかなぁ。少々早計なのではないのかと。

パッと見ると歴史的文脈を笠に着た自己主張に見えます。キャラクターは別に嫌われるほどでもないんじゃないかと思うのですけど、パロディや雑コラ風に日本の歴史物にぶっこむことの必然性は私には理解し難い。

ただ、新たに文化上の文脈を表す言葉を作ってしまうところは素晴らしい才能(着眼点)だと思いますし、そして確かに、そういう売り込みの戦略は日本のクリエイターには必要だと思われる。

しかし、海外でウケるための戦略となると、つまるところ「海の向こうから見た日本的な日本」を売ろう、というクール・ジャパンと同一に”見える”し、それが観光地で売られる外国人向け土産と同じく、俺らは別に買わないよ、そんなのは本当の日本じゃないし・・・と、国内でウケなくても自然な話に思えます。

・・・ぶっちゃけ、歴史的必然性と来ると、余計なお世話だなぁ。好きな作家を持ち上げるのはご自由だけど、これを叩く日本人って浅いよねって。海外でのウケと、日本人の暗愚を対比しているわけでしょ。成り立つのかそれ?

国内でそうまで叩かれるってことは、もはや日本では文化的に必然な反応と言い換えてもいいのではないかと。それを理不尽というのはなんかモヤモヤする。日本の半端な近代美術教育により生じた美術理解の歪みに原因を求めるのは、つまり、山田さんの主張される歴史的必然性というのは、西洋美術史上での現代アートの立ち位置のことだと思われるが、そういう視点で見た村上隆という人は、日本史上の文化的必然性を持つのか?そう考えると、日本人が村上さんを、まるで国民の共有財産を私物化して儲けているかのように批難する、と言ったって、「西洋美術史上の文脈を踏まえて日本文化に乗っかる現代アーティスト村上」の擁護にはなっていない気がします。

つまり、日本の美術(芸術)を引用するスタイルを、西洋の美術史観を以て正当付けようというのが、私にはピンと来ないし、おそらくは忌避的反応を示す人たちも同じであろうと思う。

共有財産の私物化を叩くというより、海外で成功した日本スタイルを持ち帰って、日本よ、これが世界であるぞ、世界基準の日本スタンダードであるぞ~、というのが鬱陶しいんでしょう。むしろ、海外ルールで競争するなら、日本のスタンダードを海外へ、だと思うのですが。

純粋に海外産の日本風なら日本人はありがたがると思うのですが、土産で例えましたけど、自国人がそういうことをする方が、それ似非じゃん、と訝って見られると思います。

作風というよりかはご本人の印象もあるかとは思いますけど。アニメ・漫画という記号的であいまいな世界へ、ただ自分だけはっきりした(しかも無難とは言えないスタイルで)具象物として作品とセットで現れるとき、それがどう作品へ印象付けるか、ということに、そんな年季の入ったオタクの人間であれば無頓着なはずはないと思うのです。「なんで代表者みたいな顔してんの」なんて顔が無ければ言われないわけですから。

・・・所詮、直感的に嫌いなものって、まず背後の意味を知りたいとも思わないし、知った気がしても嫌いなものは嫌いです。

嫌儲って言うけど順序が逆なんですよ。まず作風が嫌われているということを、歴史的必然性というもので覆せるわけがない。

日本人って、やたらと海外の人に日本文化をほめてもらいたがるくせに、日本的な表現で国際的に成功したアーティストは叩く。

叩かれるのは海外で成功したからなんでしょうか?村上隆を知らない人は、彼の作品をどう見るのでしょう。ただ、美術的審美眼を持つ日本人で彼ほどの人を知らない人がいるのかって話ですけど。


この対談相手の山田五郎さんの著書タイトルや動画チャンネルを見るに、この方も戦略的商売人のようですので、村上隆さんと相性がいいわけです。「皆が表面的判断で叩いてその思想を知ろうともしない村上隆」は、将来的な解説対象として丁度いいですし。

売り込み戦略って、要は時代の需要への追従なんです。そういうスタイルを実行している評論家が、村上隆の戦略は単なる乗っかりではない、と解説するのは、やっぱり胡散臭いと感じます。

どのように売れるかという戦略、それは個人が生きていくためには正しいのかもしれないが、絵画が生きていくために、日の当たらない画家にどのように日を当てるか、というのも必要なんじゃないですかね、古い有名絵画や売れ筋現代作家の解説とかじゃなくて。

教養は知識欲を満たし、自慢の道具にもなるが、観賞眼を養うだろうか。美術をお勉強の一種にしてしまって。クイズ番組を観ながら知った口を聞ける人間が増えるだけではないのか?

だから美術雑誌がグラビアだらけになるのだ。そこに消費社会の必然はあっても、美術史上の必然はあるでしょうか?

そういう価値判断をねじれだと言って自身がやることは名画の解説や有名画家の太鼓持ち。

まあ山田さんが歴史から箔付けしているだけで、村上さん自身はプロデュース戦略とその忌避反応を語っても、「そうですね、僕って美術史上の必然なんですよ」とは頷いていないようですので、どうぞ望むがままに制作していただきたい。