アゴラを流し見していて、タイトルが気になったこの記事「京アニ放火事件はいかにしてジョン・レノン暗殺事件にすり替えられたか?/久美 薫」に当たりました。(このリンク記事を是非読んでもらって共に難解さに悩んで欲しいけど、わざわざ読んでほしくもない。)
なにがなんだか・・・。
あの事件のことは意識的に情報を集めようとしなかった(当時国内ネットがどんな様相になるかは予想がついた)ので、えっ、ジョン・レノンと同じ扱いだったの?って読んでみたのですが。
タイトル以外に言及してないじゃん・・・。文中だと、911やパリの風刺誌本社テロと同じ扱いを海外でされて、それを日本のマスコミが「世界規模の衝撃」と取り上げたことで日本中大騒ぎになった。そういうことらしいです。
まあ海外の反応がどうとかの因果は調べる気しないのですが・・・。
なんて突拍子もなく理解し難い記事なのだろう。(クリックしてしまった自分が恥ずかしい)
物事の「そういう面もありうる」部分を拡大視して、「これこそ隠された、常人には気が付かない本質だ」のように語ることがむしろ目的にさえなっていそうな雰囲気だ。(野党的とでも言えるでしょうか)
マスコミが、京アニというアニメ制作会社の価値を大げさに報道した面も、あったかもしれない。いやあったとして・・・先ずそれ以前に、単独犯による大量殺人として日本では未曾有のものだったのではないですか?
その衝撃を、被害者側に少しでも否定的な見解を出そうものなら袋叩きにされるパニック状態、というようにひっくり返した見方をするのが、賢人(文中、著者一人称のつもりに読める)の行いなのか・・・。
なにか悪意敵意・執着が透けて見える。
当時の国内における京アニ認知度の根拠として、「アッコにおまかせ」に涼宮ハルヒの声優が出演した際の客席の反応をあげているが、いったいいつの話をしてるんだ???最近のことなのかとググっちゃいましたよ・・・事件の8年前です。(とっくに終わったと思ってたその番組がまだ続いてたことにもビックリだ)
で、マスコミの過大報道への疑念から、京アニ自身の非、へと話題が展開するのですが、(ジョンレノン云々は前置きらしく、要は京アニをサゲたいらしい。人々の「偉大な死への錯覚」の要因の一つは誇大報道であるとするが、そもそもそれ以前に、京アニにそこまで悼むほどの価値があったのか、というわけです。)
業界トップの品質・福利厚生・自社ブランドによる営業戦略、そういう”独りよがりの理想”や、同社アニメの青春を美化して見せる作風が、”狂人”の劣等コンプレックスを刺激し、放火という形で出る杭へのツケが体現したと、要約すればそういうことらしい。
いやそれは京アニという会社の”非”なのか?
狂人を刺激したことが間違いだった、というのは結果論である。道理の外で予想もつかないことをしでかすから狂人なのであって、理外の因果の責任を云々することにどれだけの意味があるのか?
また、京アニの態勢を独善だとの(非難的?)言及・・・ここが一番よくわからないところで、マトリックスのシーンに例えているのも私には全く意図がつかめない。仮想現実のハイウェイ?道交法?錦の旗?ここは原文を読んでいただかないと、手に余ります。
このイレギュラーな状態について政府からは黙認状態だった。なにしろ介入となると、首都高速から一般道まですべて閉鎖して物流を止めてしまうのと同じで、業界改善どころか壊滅は必至だ。日本の国策「クールジャパン」にもそぐわない。
京アニはというと、道路交通法を錦の旗に、正攻法を押し通した。映画『マトリックス』の第二作で、ヒーローのひとりがハイウェイをバイクで逆走するシーンがある。悪のAIが作り出した仮想現実のなかを、無数の車が押し寄せてくる。そこを彼女は、卓越した技術と反射神経によって、真正面から逆走し、すり抜けていく。
京アニの信者にとって、同社はあの映画のヒーロー達と同じだったろう。しかし他のドライバーから見れば、彼らは無謀な走り屋だった。「俺たちは好きで道交法違反してるわけじゃない。業界ぐるみでこうしないと共倒れしてしまうから、皆でこうやって回している。そこを平然と逆走していくあいつらはいったい何のつもりなんだ」
この例えがいったい何のつもりなんだ・・・(理非の基準がわけわかりません。集団に対しての逆走を道交法に基づく正攻法、つまり順法としていますが、この設定だと、法律違反の集団逆走が基本になっているということですから、そんな業界の末期的状態を示唆してしまっていますが、無自覚なのでしょうか?敢えて交通に例えるなら、みんながスピード違反するところを法定速度順守で走られると俺たちの違反が目立つじゃないか、という方がわかりやすいだろう。道交法違反者たちから見て順法者が走り屋に見えるというのもめちゃくちゃだ。むしろトロトロ運転でラインきっちり走行だろう。)
これは置いておくとして、文中にリンクが置かれた同著者の記事(こちらも例え話をふんだんに含む)をチラ見たところ、著者はアニメ業界の労働環境の悪さを非難する側(新人アニメーターの待遇を改善したい)のようなのですが、それがどうして”ある著名アニメ監督”の嘆きの言を借りて、京アニのせいで業界全体へシワ寄せがまわる、という京アニへの非難(・・・だよなぁ。私は非難と読む。)へと展開するのか、なぜ業界の環境がその水準へ移行することを願わないのか?
その某著名監督がどんなお方なのか・・・。スタッフの待遇の低さを憂う、思いやりのある方なのかもしれないが、監督には監督でテーマがあるでしょう。いい作品を作って、また監督を任される、監督を続けるという生存のテーマが。そこで、”新作乱造で人手不足の中、勝負できる作品を作るために、腕のあるスタッフを酷使する”のは監督の業でもあるわけでしょう?論の根拠としてはピントがずれているというか、発言の中では”出資者””乱造”の方が問題だと思うんですけど。人殺しの狂人はしょうがない、京アニが悪いとしておきながら、この某監督が苦境について外部要因を嘆くのには寄り添うわけか。それが冷静な視点だと?
問題提起をしていることは受け取れるのですが、著者にはどんな理想があるのか、いまいち像を結んで見えてきません。単にアニメの話題性をメシのタネにしているわけでもあるまいし・・・。ことばにならない違和が残るのは、読者の方だよ。
少なくとも”賢人の投じる一石”というのは僭称じゃないかと思います。
この人が炎上させたらしい「男根」発言は存じなかったのですが、それは全くの間違いではないとは思います。機械類だったり、大男のパートナーだったり、剣や銃だったり。アニメや漫画が男性的記号の願望と共にあり、進んできた、そういう見方は否定するのが難しい(とは言っても否定できない、それすなわち肯定が成り立つのかは考えてみるべきでしょうね)。マラの代わりに銃→銃の代わりにトランペット。簡単な連想ゲームです。
疑問なのはこの人の語り口の方だ。ひとつのツイートの中で、(ポルノ視されても)だから恥ずかしいということではない、児童ポルノと同じ環境で進化したからだ、とフォローしておきながら、最後に「男根の代わりにでかい楽器と絡むこの構図はいったい。」と冷やかすという・・・。恥ずべきだといいたいんだろ?
そうでもありうる面を取り出して、それが本質であるかのように語る、それが賢さだと考えているように見受けられます。悪意はなかったというか(悪意がない方が始末が悪いが)、衒学欲だとは思いますが。何に火が付くのかも(当時のこの方の影響力は存じないが)わかりませんし。しかし、いわゆる萌えについて、性的媚び、セックスのメタファー、2015年になってそんな視点を面白がってるのは、突拍子の無さを斬新と錯誤した今更感が漂います。アニメを初めて見たというのでもあるまいし。むしろ、そういう方面での可能性が大いに試されたのは前世紀末あたりでは。それを見ている年齢だとは思うんですけど。(ただ、今注目されているものに持論の冷や水をぶっかけたいだけなのでは?)
潜在的にそういう意味を持つかもしれない記号、それは作り手と受け手の共犯関係で、気づかないように仕掛けることもできるし、受け手の意識で敢えてそれを強調して見ることも可能だ。そういう関係外の、それを楽しんでもいない外野が批判のために、「確かにそう見える事実」として一つの見方を取り出して、さも見過ごされてきた重大ごとのように(労働環境についてはその通りではあるかもしれないが)騒いでみせるのは迷惑な闖入で、バカバカしい※。いや、外野とか言ってすみません。でもアニメ好きなの?この人。西洋人の目にポルノに見えるから、それがなんだってんだ?東洋人の目にディズニーヒロインが児童ポルノに見える可能性は考えもしないと?あったとしても海の向こうのものは無辜だと?それこそ著者の”錦の旗”ではないのか。「俺たちは好きで海外や批判者にとってポルノに見える可能性のあるキャラを作っているわけじゃない。こうしないと共倒れしてしまうから皆でやっている。そこを平然と猥褻だと断定していくあいつらはいったい何のつもりなんだ」とご自身が言われる可能性については考えもしないらしい。せめて自分の言を一度自分にも適用してみるぐらいはしてみたらどうなんだ。
この方は「おたくカルチャー」と「日本芸術文化史」を分けている臭いがします。わたくしの認めた保護すべき本流文化と違って、その他は俗悪卑猥な、隠されるべきポルノに過ぎない、と。
※だいたい・・・いや上に書いた通りで、これは蛇足なんだけど、隠喩ってのは隠れた喩えだからそういうわけでしょ。よしんば本当にそういう意図を潜ませていたとしても、それを逆行させて、作り手の第一意図(例えば楽器)を無視・通過して、恣意的に見出した本質(例えば男根)の発見に喜ぶなんて、もうそんなので騒いでいる連中はガキ並みとしかいいようがない。茄子とかキュウリとかウインナーを、わーい、チンチンみたーい、とはしゃぐ子どもといっしょだ。象徴といっても、チンチナブルムでもあるまいし・・・。そんなもん似非心理学で語ればいっっっっっくらでも因果が作れますよね、無意識願望、深層心理の発露とか言ってさ。否、一般的心理分析ですらなく、こう見える可能性があるから、私にはこう見えるからという傲慢なこじつけで。人類普遍の要素にこじつけるのに理屈も科学も必要ありませんからね。くだらないから具体的な例示もしませんが。これは・・・チンチンの隠喩!とか、おっぱい!ケツ!なんて、ギャグ漫画でやる領域のことです。そんな笑い飛ばされるべき思考・・・たちの悪いことにこじつけの因果は思考者が執着を止めない限り完全な否定はできない・・・また人間にとっての接触的・生理的快感を生む形状と身体形状との関連・・・及び、事物への母性・父性あるいは性的象徴視もまた、容易に否定できるものではない・・・そのような発想を、楽しむでもなく、何をまじめくさった振りで恣意的に結論付けて冷やかし、安易に論うのか。ある関係性を疑う発想を持つとき、何もかもをそれにこじつけ関連視してしまう罠にハマっていやしないか、利益のために恣意的な印象付けをしてやいないか、という疑いを自身に向ける発想がない人間が賢人であろうはずはない。
・・・いや・・・なにげないつぶやきで始まったであろうお祭り参加者をこうもけなすのも意地が悪いか。サブカルに限った話ではなくて、与えられればいつでも、そういう清く正しいものさしを担いで騒ぐ準備が出来てる人たちはいらっしゃる。
私がこの記事に気持ち悪く感じるのは、京アニをジョン・レノン化したマスコミ、その熱狂に参加した人々を、冷静でないと横目で見ながら、かつて自分が火元であった炎上沙汰を、己が文筆の箔付け、人心へ訴える力の証明であると得心してでもいるかのように、悠々と執筆の動機に含めている・・・そのように見えることです。
いっそのこと、男根的描写が狂人の男根本能的対外的攻撃性を高め、凶行に至らせたのだ。とでも結論してみてはどうかと思います。男根的な見方を今でも信じているのでしょうから。もっとあらゆる隠喩に噛みついてみたらどうなんでしょうねえ。
※アニメ会社の名誉のためにいうなら、デフォルメ表現がときに性的特徴を増幅するように見え、またその嗜好へ訴えかけるものでありうる(そんなもんは人間の想像できるかぎり全てがそうだ。それがたとえ実写であろうと理想化・誇張された世界であることに変わりはない。)ことは、否定できるものではないだろうが、キャラクターの持つ楽器が、決定的に男根の代替物であり、つまりは真実の意図を隠して、あるいは気づかれないまま公然と披露されるポルノ画像であるというような見方は、全くもって単一的視点に基づいた妄想的こじつけにすぎない。その視点のレベルに合わせるなら、全ての棒状・円筒・円柱物などは決定的に男根的で、全ての半球部、曲面部、曲線部などは決定的に女体的でなくてなんだというのか?全ての口をつける部分は口による行為を暗示するか?全ての挿入機構は行為そのものの暗示なのか?(強調したが、これが決定的でなくそうありうるという可能性の問題であるならお話にならないはずだ。)
敢えて投影しなければ常人が気にしもしないモチーフの関連性など公然と披露したところでなんの問題でもありません。公共の場で楽器を持つなと?ウインナーを食うなと?腰を振る要素のあるダンスをするな?あるいは、往来には内部にセックス的な往復運動を内蔵した、外見的には男根あるいは女体の象徴、あるいは特徴を踏まえた物体が走行していますがそれが問題でしょうか?そのCMに少年少女が出演することは児童ポルノか?バカバカしい・・・。それを問題視するご意見が出てきたら賛同するのか、この著者は?だいたいがニンゲン自体、性的だと思えば性的でしょうに。もし著者がこの行をご覧になったときにバカバカしい想像の飛躍だと思うなら、幸いですけど。まあご自分の発信を正しいと思ってそうですので、むしろうなずいてくださるでしょうかね。(否定的に思っているのなら、そんな過去を実績だとして新たに”石を投げる”動機に出来るはずがないと、私の精神からすればそう思います。わざわざそんな件に言及しなければ、著者を知らない人からすれば、自称賢人による、例え下手で、突拍子もない分析、だけで済んだものを、自分でそれに個人的怨恨の疑いを持ち込んでいるのだから、浅はかと言いましょうか。それとも、世間を騒がせた以上、一応触れておかなければ不誠実だとでも思ったのでしょうか。汚れ役を引き受ける的な自己陶酔でしょうか。こうなると私の方が似非心理学めいてきたものですね。穴二つ、というやつで。)
あと、本当に例え話がお好きなようだが、理解を容易ではなくむしろ難解にする例えなんてのは、ひけらかしとごまかしの混合オナニーに過ぎない。なにが「作り話ゆえの説得力」か、ご自身が披露するのは終始「たとえ話ゆえの分かりづらさ」じゃないか。文中でリンクしている別記事でブラックジャックのセリフを引用なんかしているのが本当にうすら寒いです。ヒーローがどうとか書いているがヒーローに自己投影して酔っているのはご自分ではなかろうか。
(何がうすら寒いかと言えば、BJならば人の命を問題にするであろう事件を、被害者側の責任に終始する態度に加えて、BJこそまさしく「みんな」のやり方に対する「逆走の人」であるからだ。その時のご都合でヒーローの口を借りモノを言う、これがごっこ遊びでなくて、なんなのか。)
ただザッと見た感じ、そっちの記事はまともに問題提起をしている風に見えました。それでも頭から京アニ作品の画像を出しているあたり、どうもこの人の目の敵らしい。敵対心は盲目でしょうか。実は上手くやって見せている京アニも、裏は真っ黒でした、そういう話の展開ならわかるのだが、そうでないあたり本当に悪意が透けて見える。この人にとっちゃ某弓道アニメの「はやけ」なんかホクホクもののメタファーだと思うのだが、どうなんでしょうね。なんか言及してるんでしょうかね。(こじつけを非難するために、敢えてそのやり口に沿って例を挙げてみただけで、この某弓道アニメの描写を非難したりバカにする意図はありません。)
私が個人的に京アニに思うのは・・・制作環境の実態がわからないので、受け手として見れば、その制作スタイルが、自社内模倣生産を繰り返すことで、劣化マンネリになりはしないかという懸念があるのと、そうしてお家芸として認められたものの再生産以外に、アニメ会社の安定の道はないのだとすれば、業界は先細っていくだろうということです。
つうか・・・(私もしつこいなあ)・・・BJがお好きなようだけど、この人がするような見た目の論法で言えばペドじゃん、ピノコは。なに、好きな作家は例外?「古典」は例外?(海の向こうの無辜たる)ディズニーの形態描写を継いでいれば例外?それとも設定的には人格の年齢は大人だから例外?医療モノなら裸そのものが表されても例外?人工の身体なら例外?デフォルメなら例外?(これは勿論、非難したいときだけデフォルメされたものに対して恣意的に暗示を見出す態度への皮肉だ。)
好き嫌いの定規と善悪の定規を混用しているのではなかろうか?
古いものこそが優れていて、好きだ。という感じ方は私にはあります。けれど、古いものの権威を笠に着て新しいものの脚を引っ張るのは、いわゆる老害というやつです。古いもの好きが極まる先は、その正しさで後世のものは何でも斬れると思い込む安っぽい全能感だ。京アニの制作体制を非難するのも、アニメーターの待遇を憂いながらも、実のところアニメは古臭いスタイル=根性で作れとでも思ってるんじゃないかと邪推したくもなる。
しかしひねくれ者を名乗りながら、マジのねじくれたウルトラCを決めてみせるのは予告免罪ギャグなのか?確かにひねくれているという自己分析の確かさは認めますが、なんでそんな(賢人とか言って)自信満々なんだよ。その自信の割には、「京アニの独善姿勢はいかにして凶行を誘発したか?」というタイトルにはしないのだなあ。
つーか「涙とともに。」ってなんですか。いったいなんの感傷ですか。私の共感力ではとてもたどり着けないが。
かわいそうに、杭を出すから打たれるんだよ、ぐっすん。ってことですか。いったいどんな目線から涙しているのやら理解し難い。
もしかして、私は涙しているから、京アニ憎しだけで非難文を書いているわけではないんだよ、とそういう意図でしょうか?
そうだとしたらやっぱり自己免罪じゃないか。そんな文句ひとつが誠意の証明になるものか。
いつかの年末に視た気がしますが、おバカな内容の動物番組がありました。
キリンを保護するために、つがいの生活場所を競争相手のいない島へ移すのです。そのうえ島へ殺虫剤を撒いて、住んでいた大型のヘビも捕殺する徹底ぶり。何がバカかって、「こんな危険なヘビがいたらキリンが食べられてしまいます」「かわいそう~」とか言ってレポの女優だかモデルだかが落涙しているさまを撮るわけ。ヘビに泣いてるんじゃないんだよ?キリンが食われるのを想像して泣いてんだ。
「お前の為」だと言って生の権利に干渉し、そのお膳立てで「邪魔なこいつらは殺しといてやるよ」。とんでもないことです。
これが、愛する者を護るため、または人類の生存に重ねて、生きるっていうのは命の上に成り立つんですね。とでも結んでいれば、横暴は同じでも誠意の偽りはありませんでした。ところがそのようなエゴイズム、恣意への相対視を欠き、自明の善だと思い込んでお涙頂戴をしている。
他者の尊厳よりもわたしの愛の方が重いってことをやってるだけなんですよ。今この瞬間のわたしの涙こそ絶対的に尊いのだと。
勿論、それを芯に共感を誘おうとしたのは番組です。構成やテロップで結論は変えられるのですから。でもそれをしなかったんだから偽善趣味にはぞっとしますね。とにかく胸糞悪かった。女の子はと言えば、ただ視野が狭く感じ安いだけの人で、ちょっと陶酔しちゃっただけなのでしょうが。(狙って、あるいは必要を感じ取ってやっていたなら一種の才能があろう)
“わたしの涙”なんてのは相対の対極にあるものです。年を経た今、涙もろい彼女が、動物愛護とはもしかして我々が気持ちよくなるための身勝手な趣味ということもあり得るのでしょうか、という視点も持てたかどうかはわからない。
が、この記事の著者は善・愛・正義の身勝手と視野狭窄が、互いに招き合い強化することについて考えたことはあるのであろうか?
少なくとも、最後に「涙」などという余計な演出的文句を追加してしまったことは、要領を得ない文章へのダメ押しであり、読後感の不愉快さへの総仕上げである。
やっぱり、流し見なんかするもんじゃありませんね。さしあたり、公平で、奇をてらわず、信用できる、と思える特定の人の言説に触れることです。知を求めながら精神の健康も保つにはこれしかない。
死への便乗を見たくないから今まで避けて来たのに、私としたことがとんだうっかり、気のゆるみだった。
常に思い出すべき教訓・・・派手、奇抜、刺激的、印象的、扇情的、話題性、時事、特に書き手の名前が初見である場合、この手の見出しには手を出さないのが無難。
[25/3/6改題と追記]
カップうどんのCMをアニメにしたところ、ご勝手な性的連想ゲームのプレイヤーが湧いておりましたとさ。
あー、日本の記号化力と連想力は素晴らしいなあ。
ところで「士」という漢字の成り立ちは男根の図案化らしいですが、これがおちんちんに見えて卑猥であるとか言って、ネガキャンでもなさったらどうかしら?
ああ、くだらない、くだらない、くだらない。
しかし、この話題のCM、正義商売人のこざかしい言いがかりは論外として、私はああいう絵を気に入りもしません。
あの映像を見て感覚的に気持ちよくはないです。というのは、何が何の陰喩だとかいう浅薄な連想ゲームは論外として、絵が「媚びてる」からです。まあ、今はこういう画風が普通だよ、と言われれば、私の感性がそれに追いついていないだけなのだろうと思いますが。形態が90年代アニメの絵柄だったら、私はホクホクしてただ賞賛するのみかもしれません。時間は信認を得ますから、昔のパロディとか無難ですし、よく目にしますよね、コマーシャルで。(こういった自分の感性との齟齬が気に入らないからとネガキャンを始めれば、私も↑↑↑の轍を踏むわけだ。)
勿論、2次元だろうが3次元だろうがコマーシャルには媚びる要素があります。なんだ、この媚びたギャルとスカしたイケメンは・・・という類のものは実写の広告でもしょっちゅうです。が、その仕組みからして誇張であるアニメ表現は媚びも大きく見えるものですし、その見えやすさゆえに標的にされるのでしょう。無理やりな言いがかりから表現と企業を守らねばならんのは賛同するとして、見た目の好みは私にもありますから。
しかしオタク的なモノが市民権を得たというか、そういうものが一般に広まって、もはや特別オタク的でもないというか。(オタク的、というのは、なんかそういうアニメっぽいものを愛好するっぽい、という、広義の意味です。)VチューバーをCMに起用するくらいですものね。つまりその宣伝・印象の効果を見込んで。それだけ世間に層を持っているとの判断でしょう。
オタク的・・・とかつては見られたであろうもの・・・の受け入れの傾向が喜ばしいのかと言われると微妙で、受け入れがたい少数として排除されたくはないが、多数的な感性や視点に味方につかれたら、それらに飼いならされて弱っていくのではないかと。多数に向けて、似たようなものばかりになりはしまいかと。(そもそもアニメ形式のCMが嫌いなんですよ私。ナメられてる気がします。こういうので喜ぶんだろ?と。大抵は宮崎と新海に似せたような上辺の、工夫のない様式で。そういうのは権威を持ってきてるんですよ。そういう点では、ふつうにかわいい表現をしている件のCMは、私の好みとは違えど、(思考停止で一般向けビッグネームの真似をするのではなく)市場を見てやっているのではないかと。その点では軽薄な感はない。と思う。)
受け入れとは言ったって、ほぼメディア上、Web上で感じるというレベルでの話であって、気軽にオープンに出来るものでもありませんが。あの人って「アニメとかが好きな人だよね」というレッテルはリアル世界では変わりません。
言いがかりは論外として、ならば隅っこで”まともに”卑猥な表現や、残虐その他、公序良俗に反する表現(勿論、創作上の表現の話だ)をしている者とその愛好者はどう見られるでしょうか?
勿論、それらがそれらとして見られる以上は、CMのように一般に披露することは通常ありえず、もし公然とそれを強行した場合には非難を受けることは当然なのですが、世の中にはわざわざ秘密の部屋から”公共の場で忌避されるべきもの”を探り出して公衆に曝すのを喜ぶ輩がいるものです。
今回は、言いがかり商売屋の試みが、やはり一般的には不当だとして、一蹴されているようですけれど、それは多数側のボーダーラインが味方したまでのことではないかと。(それは勿論、受け入れられると踏まえた上でCMにしているのでしょうが)
卑劣な連中が、次はちょっとマイナーなところを探り出すかもしれません。そのとき、それが一般に理解され得る表現かどうか、というボーダーラインについては別問題であって、わざわざ一般ではないところのものを一般の尺度(というよりは、卑劣どもが自分の利益のために狙う尺度)に曝して排除しようとする行為、そのものが不当である、という見方を、多数側が絶対にしてくれるとは、思わないことです。
安穏としたときに不意をつかれるものではないでしょうか。多様性だとかいうものが本当に試されるのは、そのときです。(私はお前が嫌いだから死ね。この思いは尊重されるべきだからお前は死ね。・・・という「多様性」が認められるならとっくにお前らが殺されてるっつーの。そんなこと誰もがわかってるはずなのに。)
政治系のサイトでこの話題を知ったんだけど、マジで、私が例示したような、ただの妄想を根拠に批判を展開しちゃってる人(つーか新聞系列なんだが)が実際いるものでね。
カウンター回したくないからリンク貼りませんけど。
例えば清涼飲料のCMで女優が出るとしてね、「ふおお!○○たんが僕のおちんちんを咥えて、飲んでる!」
このレベルの妄想が根拠なわけね。はぁ?だよね。なーぜかこれがアニメ批判(とかの、○○批判というジャンル化した批判様式)で”わたしたちの正義の妄想”になると、通用すると思ってるわけだな。
よく恥ずかしくないよね・・・。別に、そういう妄想で盛り上がるのは勝手で、多様性なんだけどさ。それを根拠に人を陥れようとするわけですね、こいつらは。それどころか煽っておいて、その対策に専門家として自分を雇えと。恥ずかしくないのかと。
何を夢見てんでしょうねえ。情報番組に招かれて、「フーム、これはですね、つまり男性器と女性器を示していてですね、不適切であると・・・。」とかって解説でもしたいのでしょうか。
仮にそこまでいくと、もう、コントの落ちの、スケベネタじゃんね。
もしくは、「これはポリコレ的に・・・」「欧米か!」バシーン!
あーあ、多様性多様性。
下ネタで盛り上がるのに別の方法はないのかな?
いっそ、一人で盛り上がればいいっつうか、作品に出来ればなおいいよね。
性欲にさえ正義の箔付けを。なんてやり方は臭くてたまらない。
正義どころか目先の金に魂を売っているくせして。
この際某人は、自身が間接的発起人であり、「私の手柄だ」ということを各所で声高に表明してはどうかと思います。
少なくとも、そう認知されることに不服であることはないでしょう。
[25/8/13追記]
1年を経た今でも、ふと思い出されては胸の内に苛立ちを振り撒く例の記事に、どうにも私は見過ごすことを許せないものを感じているようだ。
改めて、読み返してみよう。
あの当時はマスコミからツイッターに至るまで、半ばパニック状態で、少しでも京アニに否定的な見解を述べようものなら人でなしと袋叩きにされる空気だった。
しかし時を経た今、あの事件の本当の要因について、そろそろ誰か賢人による一石が投じられても、いい頃ではないだろうか。
以前の私は、「賢人による一石」という文句に、これで賢人とは僭称だと評価したのだが、むしろ注目すべきは一石の方である。
一石を投じる・・・静かな水面に石を投げて波紋を起こすように、問題を投げかけること。
つまり久美氏の狙いは、誰も言及しない領域へ新たな問題提起で反響を呼ぶことであって、語ることの質については二の次なのだろう。これは揚げ足取りではないと考える方が自然である。
以上は長い前振り。放火事件より4年近く前、同スタジオのある人気作品(の版権イラスト)について、思うところをふっとツイートしたところ、日本中より怒りを買った私(興味のある方は「男根のメタファー」でご検索いただきたい)としては、事件五周忌を機会に、あの放火について語ってみるのも悪くないと思い、以下、石を連投する。
このように当該記事で言及している問題とは質的に関係のない、自身のかつて起こした反響を執筆動機にしているからだ。
こんな反響力をアピールするような一文を添える必要は全くないし、自己紹介のつもりなら、自身の能力について約束できることが先ず発言の炎上沙汰というのも卑しい話だ。
更に、ジョン・レノンについてはタイトルに使われているだけの上に、認知度についての話題は「前振り」である。
愚かにも私のようにタイトルが気になって読んでしまう人間を釣るための餌に過ぎないわけだが、ここからも言論の中身よりもキャッチに比重を置いている著者の態度が匂い立つ。
その前置き文にある、京アニの認知度について書かれた部分も、再度読み返すが、
日本のアニメが世界各地でファンを開拓しているという話は1995年あたりから日本のマスコミが(間違って)報じだしていて、それが2010年代にはそれなりの市場が各地にできあがってはいたが、ハリウッド映画には遠く及ばないニッチ市場だった。
何しろ日本で放映される最新アニメ番組を、日本語を根性で学んだマニア達が、わずか数時間で各人の母語で字幕を付けてネットで無料配信(むろん違法行為だ)してくれるのでそれをお試し視聴し、気に入ったら各国でその後出る正規版を購入するという消費スタイルだ。そのため日本での最新放映には極めて感度が高い。人気作となればなおさらだ。
京アニ作品もそうやって世界に広まってはいたが、あくまで「今、ニッポンで一番ホットな逸品」「そういう大ヒット作連発のクールなスタジオ」としての認知であった。
当の日本ではどうだったか。日曜の人気トーク番組「アッコにおまかせ」に・・・(略)・・・「すずみやはるひ?知らなーい」の合唱で・・・(略)・・・京アニの社会的認知度は実際この程度のものだった。道行く人びと100人に問うても、おそらく98人は同じ反応だったろう。
この日曜番組を根拠とした時間錯誤の嫌味ったらしさについては前に書いたが、世界での認知度と比べるに、ニッチ/マニア/社会/道行く人、と比較対象がメチャメチャである。妥当性も何もなく、京アニを貶めたい気持ちが先行している。
それを見たアップル社のCEOや各国最高首脳たちが、ニューヨーク911テロや、パリでの風刺雑誌社へのテロ事件の日本版と思い込んで追悼メッセージを出す。それを日本のメディアが取り上げて「世界中に衝撃が走っている」と煽る。これを日本の大衆は真に受けて、ツイッターで大騒ぎが始まる。日本の政界も踊らされて、官房長官ついには総理大臣が追悼を述べる。
A社CEOや各国首脳の心中はどうだったか知らないが、よくもまあ「思い込んで」などという語句が使えたもので、それを言うなら、著者の文は全てが「思い込んで」書かれたものではないのか?
「政界も踊らされて」とあるが、この後に自身で「クールジャパン」は国策だと書いているではないか。アニメが国策で推進している文化活動であるなら、そのアニメ企業へ起きた酸鼻な事件へ政府の人間が追悼することを、訝り嘲る必要があるのか?
こうして、アニメマニア以外にはほぼ無名であったはずの一アニメスタジオが、まるで国宝の建物が炎上したかのように大衆には刷り込まれていった。放火犯は金閣寺放火事件のあの青年僧と同じ狂人であり、少しでもこのスタジオの非を問う者は、ツイッター上で猛バッシングされた。
金閣寺放火とその犯人へ結びつける意味が不明である。
この喩えは察するに、いちアニメスタジオが国宝級に扱われたとの主観的印象から想い付いただけの事例を、そのイメージの出来に酔う内に、分析的に相似関係だと「思い込んで」しまったのだろう。
関係性の空想趣味と論理思考との短絡である。例のメタファー騒ぎもその類だろう。本人は誇らし気のようだが。
アニメマニア以外にとって無名というのも、まあ尺度は人によるが・・・。
前置きが終わると、気持ち先行でセンスを欠いた自家撞着のイメージ垂れ流し的陶酔メタファー文体に拍車がかかる。
長ったらしいので部分引用も難しいのだが、例えば、
日本のアニメ産業は半世紀にわたって、車線の下りを上り、上りを下るという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を業界ぐるみで続けてきた(どうしてそんな風になったのかについては、私が前に上梓したこれやこれで歴史的に検証してあるのでどうかご一読いただきたい)。
↑参考までに、リンクはそのまま。
お分かりだろうが、車線の逆走と歩行者の信号無視とは全く別のことである。関連する語句で作られた比喩表現と慣用表現とを繋げた結果、意味が通らないというセンスの無さ。全部がこの調子である。
ほとんどの部分が自己満足の水増し的修飾であり、そこに意味などないから、むしろ、その駄文作りを駆動させる気持ちの方に着目すべきだ。
つまり、京アニ憎しで貶したいという気持ちであって、これが本旨である。
そこへ5年前、事が起きたわけだ。著者にとっての因果というものを現実にした事件が。
まず、著者の京アニ憎しのひとつの参考として、引用部のひとつ目のリンク先を見れば、アニメ業界の労働環境へ問題提起した記事であり、そこでは京アニの名前を出してはいないが、論の参考として貼られているアニメ誌の画像は、京アニ作品の男性キャラクターが表紙のものである。

記事の日付は15/6/09。一方、画像の雑誌は14年9月号だ。そして、15年に入って6月時点までの号では、京アニ作品の表紙がない。
見て分かる通り、持論のために「アイドル雑誌」風の表紙が必要だったようだが、日付的に近い15年5月号の表紙が、まさにアイドル志望の男性キャラクターという格好の品であるにも関わらず、これである。
ここでわざわざ昨年放映の京アニ作品が表紙の14年9月号(8月発行)を持ってくる理由は、京アニへの悪感情以外にあるだろうか。
(14年11月号表紙も京アニだが、再び京アニ作品が表紙を飾るのは15年12月号である。)
結論部を見ると、
ロックのカリスマ、故デヴィッド・ボウイが「私はステージで殺されたい」とかつて名言を残したという。「現実世界が不幸なぶん、カリスマは輝く。私はステージで殺されたほうが本当はいいのだ」 と。日本のロック批評家による作り話とも言われているが、面白いので紹介する。
京アニが日本のアニメファンの間でカリスマとなったのは、日本のアニメ産業の構造的暗部の裏返しだっただけでなく、まばゆいアニメの夢想に金を費やし続ける、現代日本のポップカルチャー消費者たちのみじめな現実ゆえだった、ともいえるのではないか。
京アニは、大手出版社から刊行されている人気まんがや人気ラノベを原作にするのではなく、自社で小説投稿コンテストを毎年催して、最優秀作品は自社でアニメ化すると喧伝していた。これはいってみれば企画からアニメ制作から出版から商品化までを一社で統括的に行うという、独り勝ちの王国を目指すものだった。自社ブランドを活かして、理想の労働環境とともにアニメを作っていくための高邁な目標ではあったろう。
だがそれはリスクの分散とは真逆の道だった。放火犯の履歴を見ると、幼少より、あまり幸せとはいえない道を歩かされた男のようだ。高校でブラック部活動を言葉巧みに生徒たちに強いる音楽教師(私が校長なら厳しく叱責するだろう)を美化してアニメの青春物語に昇華してみせるような、奇跡のアニメスタジオは、彼にとってはまばゆいカリスマだったろう。自分の書いた小説を、読んでもらって、それがアニメになって、原作者として知られるようになったら、どんなに幸せだろう・・・
夢は叶わなかった。憧れは怒りに変わった。そしてカリスマへの復讐心を燃やした。ガソリンを携行缶に詰めて、乗せ台でスタジオの入口ホールに運び込み、火をつけた。巨大な力と力がせめぎ合う断層の、まさにど真ん中で、爆発が起きた。長くくすぶっていた地殻エネルギーが、さらけ出されたのだった。
まず、ボウイ氏の引用からして不穏である。(この発言を検索したが見つけられなかった)
これは本人が「面白いので紹介する」とする辺り、実に気分的なもので、なくても障りない引用であって、後の文章と対応するのは「現実世界が不幸なぶん、カリスマは輝く。」の部分だけである。
わざわざ「殺されたい」「殺されたほうが本当はいいのだ」などという発言を引く意図は、カリスマ=京アニと素直に対応させれば、これは京アニ社員の心情の代弁であり、彼らにしてみれば殺されるのが本望だったのだろう、と言いたいのだと読み取れる。
他に解釈の余地があれば教えて欲しいものだ。
著者の重度の相似関係妄想癖を考慮しても、いったいこれの何が「面白い」のか、察せられるのは、ただその持ち前の短絡思考の閃きが気持ちよかったというだけのおぞましき軽薄さである。
また、自ら「狂人」と前記した犯人の心情をこうも感傷的に再現してみせることの不毛さ(狂人の何が分かるというのだ)に露ほども思い至らないらしい。
ここで思い出したいが、「前振り」において、著者はメディアの誇大報道の連鎖と、それを受けた大衆の反応をへ疑問を呈している。
そうでありながら自身は徹頭徹尾、文章の全てにおいて気の向くままの誇大表現で反響を呼ぼうとしているではないか?
そして、事件というものを、”実際に起こったこと”ならばつまりは”実際の因果関係”だと短絡に理解し持論を強化してしまう、あまりに軽く、尊大な神経。
だから事件が起こった後からこんなことを言い出す。
皮肉なことに、日本のアニメ業界内で、京アニは必ずしも評判が良くなかった。事件より数年前、私が取材で話をうかがった、ある著名アニメ監督は「あそこが模範生ポジションを保つ裏で、業界全体にしわ寄せがきている」と嘆いていたのを思い出す。「ヒット作を出すにはとにかくいろいろ新作を出していくしかない。そのうえ京アニと同じ品質のものを作れと出資者たちからは強要される。新作乱造で人出不足のなか、腕のある者ほど酷使される」等。
京アニは、猛暑に空調をフルに回して、社内は快適だが、その廃熱によってアニメ業界全体の生態系を、むしろ乱していた。
「ほらね?出る杭は、打たれて当然なわけだ」とでも言わんばかりであるし、著者は実際、それを「リスク」と呼んでいる。
そのような「リスク」を認識していたなら、なぜ事件前に京アニの事業形態の抱えるリスクへの議論を起こさなかったのか。とは問うまい。それは流石に理不尽であるし、逆に、事が起こった後から論じることを、知ったかぶりと決めつけるわけでもない。機会によって興味を持つこともあれば、論を温めるということも、当然ありうる。
だが、ここから見出せるのは、私は独り気づいていたけどね、という得意顔だ。
しかし時を経た今、あの事件の本当の要因について、そろそろ誰か賢人による一石が投じられても、いい頃ではないだろうか。
(略)・・・事件五周忌を機会に、あの放火について語ってみるのも悪くないと思い、以下、石を連投する。
ここから匂い立つ軽々しさが、私は鼻もちならぬ。
例の記事の日付は24/7/18であり、これは事件からちょうど5年後ではあるが、著者によるメタファー騒ぎが起こった例のアニメの第3期が終わってから3週弱といった時期でもある。
またしても男根の陳列に、放映中は耐えたものの、ついに黙っているわけにはいかなくなったのか。
先月(6月)最終日、京アニの残されたスタッフの手で、ブラック部活動アニメの完結編最終回が放映された。主人公はその後、教師として母校に戻り、同部活動を支えていくという締めであった。ネット上には感動と称賛の声があふれた、不屈の京アニであると。
なぜ事件から5年後なのか?
京アニの新作が、かつての自身の炎上発言の矛先だった作品の続編であることによる知名度的打算もあろうが、なにより、たまたまスポ根モノで、持論へ絡めるのに都合が良かったからだろう。
著者にとって「高校でブラック部活動を言葉巧みに生徒たちに強いる音楽教師(私が校長なら厳しく叱責するだろう)を美化してアニメの青春物語に昇華してみせる」作品が、お得意の妄想ロジックと最高に都合が良かったのだ。
持論への裏付けを、現実とアニメの双方から供給されて、メタファー的に大得意というわけである。
(私が校長なら・・・などという付記も全く図々しい出しゃばりであって、視聴者として得られた情報を以てアニメの中で活躍したいというまるで10代前半のような発想か、自身の人格の出来に対する能天気な信頼か、そのどちらにしても、もしくは両方であっても、そんな想像文をわざわざ加えて清廉潔白を名乗りたがるような恐ろしき浅薄さに辟易とさせられる。
こんな校長は折に触れて妄想的正義を振り撒いては場を乱し、集会ではわけのわからん喩えにまみれた訓話を披露してくれることだろう。鼻つまみ者であろうことは間違いない。)
あの放火炎上は、ひとことでいえば「フェアトレード運動の破綻」である。
(略)・・・京都アニメーションは、業界随一の高品質を保ちつつ、従業員の福利厚生を充実させるという、極めてまれなスタジオとして、アニメファンの間では知られていた。
同社のアニメを視聴し、関連商品を購入してあげれば、そのお金は必ず制作チームの全員に公正にいきわたり、社内に育児所を設ける等の女性スタッフのことも考えた労働環境を支える一助になる…
これはフェアトレード運動の変種というところだ。「発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す運動」(ウィキペディアより)。京アニのファンとなるのは、アニメ業界全体の改善にも貢献する、崇高な消費活動でもある――大げさに聞こえるだろうがアニメファンたちは大なり小なり、そう考えていた。
(略)
京アニは、猛暑に空調をフルに回して、社内は快適だが、その廃熱によってアニメ業界全体の生態系を、むしろ乱していた。
だがそうした現実はアニメファンには見過ごされがちで、同社はブランドとしてだけでなく、ファンにとっては日本アニメ界のアップル社ともいうべきカリスマ・スタジオへと変貌していった。
(略)
京アニが日本のアニメファンの間でカリスマとなったのは、日本のアニメ産業の構造的暗部の裏返しだっただけでなく、まばゆいアニメの夢想に金を費やし続ける、現代日本のポップカルチャー消費者たちのみじめな現実ゆえだった、ともいえるのではないか。
これが著者なりの事件の「真相」であるらしい。
なんのことはない、京アニとアニメファンの間に「フェアトレード運動」の関係性があると「思い込んで」、事件が起きた後で、それが「破綻」の象徴であると「思い込んで」独り合点しているだけだ。
(略)・・・ことばにならない違和が、ひねくれ者の私のなかに、今も残りつづけている。涙とともに。
著者がいかにアニメ制作の環境を憂いているかは、この記事への評価においては知ったことではない。
「京アニのファンとなるのは、アニメ業界全体の改善にも貢献する、崇高な消費活動でもある――大げさに聞こえるだろうがアニメファンたちは大なり小なり、そう考えていた。」「ポップカルチャー消費者たちのみじめな現実」からして、業界の構造を高見から見渡す位置にいるという自負からか、アニメファンを見下した侮蔑的感情は明らかである。しかし、アニメ産業を支えるのは、その消費者であろうに。
取り合えず建前的に労働環境の問題へ斬り込む体を装ってみただけで、その成功モデルを冷笑してそれっきりの泣き落としオチであるから、さしあたり筆の走りに任せて昔年の憎しみを吐露したのみで、例の記事にそれ以上の意味はない。
(略)・・・あの放火について語ってみるのも悪くないと思い、以下、石を連投する。
一石を投じる、とは全くよく出来た装いで、人の不幸をタネにして問題提起を口実に自慰的なポエム作りに興じるばかりか、そんな大変ご結構な品性すら表現に見せかけた擬態であって、実のところは被害者を更に石打の刑に処している残酷な悪意の露出である。
こんな自慰のためにお為ごかしの知性のフリをしながらなんの知的貢献もしない駄文を振り撒いて悪意のエクスタシーの涙さえ人に見せねば満足ならんような露出狂じみたやり口を私は心底軽蔑する。
ただ、私としては不愉快ながら自分の感性と向き合うきっかけにはなったわけで、そこだけは例の記事を踏んだことも無駄ではなかった。とせめて思いたい。
もしかして、私の批判は全くの見当違いで、
しかし京都アニメーションは、業界随一の高品質を保ちつつ、従業員の福利厚生を充実させるという、極めてまれなスタジオとして、アニメファンの間では知られていた。
同社のアニメを視聴し、関連商品を購入してあげれば、そのお金は必ず制作チームの全員に公正にいきわたり、社内に育児所を設ける等の女性スタッフのことも考えた労働環境を支える一助になる…
(略)・・・京アニのファンとなるのは、アニメ業界全体の改善にも貢献する、崇高な消費活動でもある――大げさに聞こえるだろうがアニメファンたちは大なり小なり、そう考えていた。
アニメファンがアニメ制作現場での女性の労働環境を特に男性と区別して案じることがさも当たり前のことであるかのような書きぶりから、著者の関心は特に女性へ向けられているだろうことが察せられる。
そうであるならば、女性にとってよい職場環境を整えていた京アニの「フェアトレード」の破綻について、涙まで見せて嘆いてみせるのと、その要因となった独善的体質(と著者が見なすもの)への非難、同社の表現を蔑視する己への反響へ持つ誇り、それぞれが同時に同人物の中で成り立つのにも納得がいく。
つまり、
「女性にチンポなんか描かせてんじゃねーよ、汚らわしい。」
「でも、せっかく女性にとってよい労働環境を作るシステムだったのに、破綻しちゃって悲しいよぉ。」
「ぬか喜びさせやがって、結局失敗だったじゃねーか、貶してやる!」
ということじゃないんですか・・・?
それを自分では得意だと思っている表現技巧で飾ってみた、というだけ。
そっちに偏ってない人間が呼んでも、なんじゃこりゃ。となることは当然であった。
まあしかしこの方の「賢人」とか名乗っちゃうおこがましさ、「一石」を「連投する」だなんて書いてしまう図太さは、文筆業界に金字塔としてぶっ立てて、恥的性根のメタファーとでも呼んだらいいのです。