考えの飛躍

なんだか気づいたら選挙やってたみたいな今日ですが。

ふと、ユーチューブでギャガ(配給会社)が「帰ってきたヒトラー」の無料公開をしていることに気づきました。
それも字幕/吹き替えの両バージョンで。
この内容をこの期間に、というのはいいタイミングですよね。
これがタイムリーに思えてしまうのは、嬉しいことでもありませんけど。

漫画・アニメでもすっかりお定まりになってきた感のある「敵は人間だった」構造ですが、自他を相対的に視る目を養わなければならんのじゃないか、という問題意識が遍く感じられてきた、ということなのでしょうか。

それに関連して・・・というわけでもありませんが、ふと、世間がクマ騒ぎの頃にエックスで見かけたやりとりが思い出されました。

動物愛護的考えの人間がクマを殺すな、絶滅させるなと言う。
それに対して、お前んとこにおくってやるよ、とか、人命よりクマが大事かこの人非人め、というリプライが殺到する。
こんなのはお決まりの流れですが、それらの返答に端から持論を付けて回っているユーザーがいらっしゃった。

なんでも、「少数の生存のために多数が犠牲になるのは当然のことなのですよ」、らしい。

シンプルで力強い言葉ではありますが、さあ、いきなり真理(らしき文句)で以て解決をしようという振る舞いが無謀であることもお決まりのことでありまして、殆ど誰が見たってこれは杓子定規な短絡でしょう。

この言い切りがちょっとばかし理屈っぽいのは、自然の法則として食物連鎖のピラミッドが思い浮かぶからでありましょうが、何も人間が裸の勝負に付き合わなきゃならん決まりはなく、種としてはクマよりも人類の方が強者であるのは、かわいそうだから殺さないでくれと訴える方々にとっては前提のことでありましょう。
森の法則を街の人間に当てはめるのが間違いであります。

もしくは、仮に、ある山に生きるクマ10匹と、その山に暮らす人間4人を考えてみれば、人間の方に殺す理屈がつくことになります。

少数絶対価値観などがとても普遍性を持たないだろうことは考えれば思い当たりそうなことです。
まず、少ないものほど価値がある、と決まっているわけじゃない。
また、かわいそうな少数のためにありふれた多数が糧になれ、というのは法則と価値観の混同であり、弱肉強食と判官贔屓の混同であります。
「ならお前が喰われてこいや」なんて罵声で返すまでもない。(当然、こういう反応が付くことになります。)
人口分布考えたことあんのか、くらいは言ってやりたいものですが。(危険思想だぞこれは)

この場合、さらに逆転の一手としては、クマを絶滅させればよいのでしょう。上のランクを滅してしまえば人間の生存権が繰り上がるわけだ。

自然というものを考えたとき、人間活動を自然に含むのか、ということは、自分が人間だと思うなら考えなきゃならないでしょう。
それとはまったく別次元に、多寡を絶対基準とした価値観に目覚めたのかもしれませんけど。

ふつうに考えればおかしいと思えそうな考えを固持したくなるのには、なにかしら理由があるのでしょう。

察するに、少数派な自己に価値を与えたい、いわゆる中二病でしょうね。

アウトサイダーである限りは自動的に自分の価値を認められるのですから。
他所の会話に首を突っ込む行為がかっこいいのは当然のことなのですよ。あっは。俺の満足の為にいかに多数が不快になろうが知ったことではないね。

こういうとき、一応は普段の発信を見に行くんですよ。勘違いってことはありますから。
予想通りなところの支持者でしたけど。

しかし、顔も知らん他人に比べれば、顔の見分けもつかんクマの方がむしろ、ひとくくりにして共感できるってことなんでしょうかねえ。

ネットで妄想が漏れたにしても、それが普段の生活態度に一貫しているとは限りませんけども。
良い意味で、日常ではふつうの人なんだろうと思うわけです。

悪い意味では、機会があれば日常の常識的判断・妥当な価値観からの飛躍を選んでしまうってことですが。

私は・・・できれば”クモを”殺さないでくれと言っておきましょうかね。趣味として。

なんの為に、ということは考えなければいけません。倫理のため、と言うならばそれは誰の、何の倫理か?(ふつうは、人の、であろうけど)

人間が自覚するところの人間であるために、その助けとなる倫理のため、というなら議論も出来るでしょう。

人間の営みを超えた倫理、より高きを想定したところの、天の倫理とでも言うべきものを掲げ、あるいはどうぶつのりんり(?)をかかげて、それによって人間を啓蒙しようと、あるいは営みを妨げるなら、差し当たり私は訝しむでしょう。

生きている動物の苦しみ、と言っても、感じようとしなければ感じられますまい、とは当たり前のことを言うようだが、そこには優先順位が生じているのであって、生きている人間の苦しみを感じられない連中が、優先的に動物への感情移入を選択するなら、なにか怪しく思うのだ。そこにどんなリアリティがある?

私は、擬人化とは人間を見つめ直すための視点であると思っています。擬人化の対象への感情移入そのもので終わるのは、趣味以上のものではないだろう。
人の気持ちを分かれと言っても、そりゃ解るわけではないが、動物の気持ちを分かろうとするほど幻想的な試みでもありません。
(これは擬人化ではない!と言われるかもしれないけれど、そんな言い分はリアルじゃないと思います。地に落ちた虫のバタつきもがく様に何か感じますか?※)

別に私は博愛精神なんか持っちゃいないし、多分、蜘蛛とか花の方が、自分と関わりもない人間よりは好きでしょう。
しかし人間にとって穏当でありたいとは思う。そのようにインプットされるものを常識とか言うんじゃないかと思うんだが、新常識なんて言葉がここ数年で流行っていますよね。教科書の記述が更新されるように、「常識的な考え方」もそう簡単に変わっていくものでしょうか。

動物を害さずに生きていこう、という方針を実践できるレベルに、人類の文明は達したでしょう。
しかし、その進歩的実践が可能な条件が何によって整えられているのか、注釈を付けるべきでしょうね。
少なくとも、まだ倫理が更新されるほどに、人間の生活程度が未来的なものであるとは思えません。

因みに、私は蜘蛛に感情移入はしていません。
蜘蛛が殺されても同情しません。かわいそうと思いません。倫理的問題があるとも思いません。
蜘蛛が美しいから、美しいものが損なわれるのが嫌なのです。
ただの趣味です。
趣味を共有出来たら、ちょっと嬉しいだろうとは思います。


※何も感じないようにする、ということを積極的に選べると思うんですけどね。
前も書いた気がしますが、家畜なんかそうで、生産の仕組み化した生命に感じることは何もないわけで、食べる瞬間も頭の片隅にすら命のことなど浮かばない。(冷酷と感じるかもしれないが、これは私の本心である。)
同時に、「いただきます」という言葉の慣習が、その意味するところへ繋がる道徳上の綱として残されている。便宜的な構造ではあるが・・・。

生物を殺傷することの心理的影響、野放図な殺傷が社会に及ぼす実際的損失、これらを避けることが人間の幸福へ繋がる、これが人間の倫理だと私は考えます。
駆除の可否というのもこの延長線上にある。心理的負担から逸らしつつ人間の営みを守る。駆除の対象であることを当然視するとき、その生物は命の尊厳を視る意識から逸らされる。
逸らされた心情的負担はプロが克服あるいは慣れることで肩代わりしてくださっている形だ。
(それでも、防疫で行う大量殺処分の光景を想像してゾっとするくらいの心は残してあるだろう。システム的な心の隔離を人間に対して適用することの危険へ気づくために、想像力は確保しなければならない。無用な殺生や、虐殺などへの嫌悪感はあるべきだ。しかし、駆除=無駄殺しという主張は、これはもう為にしているのであって、その手の方々にとっては、動物には”救えたはずの命”があるが、人間にはそう思わない方が都合がいいらしい。)

人は多様だから、この便宜性をよく思わぬ人もいるだろう。だが、人の食生活・食文化に、信条の上で気に入らぬからと抗議するというのは、横暴ではないのか。

今までこれでよかったんだからこのままでいいじゃないか・・・という態度が受け入れられぬとき、権利の求めは始まると思うが、しかし、動物の権利に関しては、人間は永遠に直接の当事者ではなく、動機は彼らの権利が奪われているのを辛く感じるから、という、外部からの間接的関係の域を出ない。それはつまり求める権利は人間の権利だということであろう。人間の心の権利だということであろう。
それこそ便宜的権利である。自分の望む権利によって人の権利を覆したいのなら堂々とそう主張すればよいのであって、動物の心を借りて人間の権利を軽んじることが倫理的であるとは私にはどうにも思えない。
ここに戦略的ごまかしを感じてならない。前提を明かさなければ話にならない。

そして、そこには、例えば環境のために2酸化炭素の排出を減らそうという行為が、現時点では2酸化炭素の排出に支えられなければ実践できないのと同様に、動物を害さないという生き方を、動物を害する仕組みにより生きる人間たちの社会の内側に属して実践するという破綻があるのであり、自らの主義の不徹底への不可抗力的な黙殺が伴うと私は考えている。
(菜食メニューが口に入るまでに動物は消費されていないのか?)
将来的に動物の権利の保護≒菜食が人間に資する目算があるという話であれば対話の余地もあろうが、どこかから降ってきた正義が唯一の根拠では、そこに目覚めていない人間の理解を得るのは難しかろう。

望む生き方があり、賛同者が集ったとしても、ではその人らだけの望みの世界を創れるかと言えば、そう簡単に地図を切り取れるものではないのだから、妥協そのものを攻めるつもりはない。
差し当たり自身の生活レベルで主義を実践して生きられる環境に喜びを得て生き、そこに満足すればいいではないか。
せめて人の妥協への不寛容さを、自身の妥協への寛容さで減殺するくらいの人間性を負っていて欲しいものです。

わたしが反感を抱くのはその迷いもしないひたむきさである。そういう主義だと心得ればそれまでのことで、疑問はないのか?
人間の権利と動物の権利をかけた天秤の傾きは?脊椎動物とそれ以外の動物へどう線を引くのか?動物の痛覚の信号が意味するところは人間の感覚と同じなのか?苦痛を感じないものには権利もないのか?
ひたすらな正義ほど扱いに困るものもない。
動物に生存する権利、苦しみから逃れる権利を与えても、了解のもとで生まれたわけでもないポン付けの権利には責任が伴わない。その責任を取らせようともしない。その責任を取ろうともしない。無辜の責任主体という最強の身代わりを立てた権利の代理主張は構造上どこまでも野放図に続けられる。

おわかりだとは思いますが、エックスで見た愛護的考えの人間、というのは主義の人でした。
ある主義の実践者をそれだけで軽んじるつもりはありません。
しかし、駆除=絶滅、などという短絡的言い分で人間生活への将来的リスクを語る人間には、そうしたお為ごかしの気持ちよさへカマトトぶった態度の蔓延の方がよっぽど人間にとってのリスクだろうと感じるのです。
ご丁寧にAI製の解説図なんか付けてくれちゃってさ。これで扇動できれば儲けもの、でも作図したのは私じゃありません、というこざかしさを感じるんだよ。


こういう主義は海外から入って来たんだろうけど、我々には生類憐みの令ってものがあったじゃないか。

命ある者あまねく保護する方がまだ理屈が通っている。

慣習的に命に引いた一線を、理念で以て”引きなおす”ことに、自覚的でなければおかしいはずです。
その根拠に自覚的でなければおかしいはずです。
だってそういうライフスタイルだから、としか言えないのだとしても、です。
“正義”だとか”当然”だとかいう言葉を笠に着るよりは、いいと思います。

そこに思想的すじみちがあるにせよ、エックスの文字数では足りないでしょうから、字数パフォーマンスを重視して、目に分かりやすい表層的威嚇的権威的な言葉を選択してしまうところはあるでしょうが。
それにさえ自覚的でなければ、ただテンプレ文を繰り返すだけの現象になってしまいます。

だいたい文面を見れば、むしろ確信的にやっているんだろうとは思います。


[2/12]

「コンビニ人間」がふつうではない者の内心を描いたことを不快に思っていた。
今、ふと気づいたのだがミスター・ビーンの内心を描くようなものではないか?
これがなぜ不快なのか、ふつうでない視点から見たふつうは異常に見えるという方程式で、この作為的な主観に基づいた便宜的客観性で描く世界の風刺画臭さが鼻に付くのだと納得していた。それをやっちゃあおしまいだと。地の文が、尋常から外れた理性という前提に帰るなら、そのとき全ての実感が崩れてしまう。それは仮想的虚構じゃないかと。虚構から実感を奪ったら、私小説よりも無責任な凡俗が垂れ流されるだけではないのか。
與那覇潤はこれを、障害でも持っていなければ耐えられない抑圧社会への批評性だと解した。
與那覇×先崎対談をちらっと読み返す。2020年か。
與那覇さんは、障害が最強に見えて、でもそう甘くはないという逆転構成だと。
わざわざ読み返す気が起きないので恐縮だが、最後、面接に向かう道で寄ったコンビニで条件反射的に見せてしまったスマートな状況把握と対応が、バイトの子に本社の人間かと信頼されるほどで、結局そこに再び生き場所を確認して、なんにも進まずに終わる、というものだったと思う。
だが2016年の発表から10年経った現実はどうだろう。
対談で、本を読む世代が、拗らせた若い子か、60代後半の年寄りしかいない、と語られている。
売れ筋の本がオラオラ・キラキラ系ハウツーと、枯れた老人が語る人生訓に二極化している、とも。
そこでヒットした(らしい。私はリアルタイムでは知らず、かなり後になって出会った。)この作品だが。
主人公はいわゆる陰キャだった。気の毒な性質ゆえに生じた気の毒な状況に、しかし気の毒さゆえに何も気にしない。マイナスを打ち消すという消極的プラスの生き方であった。
今や、必死になったってなるようにしかならないさ、という諦観は、何も気にするこたあないからやっちまえ!という悪い意味でのなるようになる、陽の自己肯定に吸収されちゃいませんか。
ラノベ風に言えば[ジョブ:コンビニ人間の私がスキルを活かしてリアルで無双します!]みたいな。別に生きづらくね~よという。
それがマッチしてしまえば、生の違和感ではなく、生の成功感だけ残って、顧みる取っ掛かりもなくなるし、自認世界だけ上手くいく限り反省の必要なんかない。
ポジティブな同調圧よりもネガティブの表明ができる環境の方がまだ健全、と與那覇さん。
ネガティブを強調しすぎては恥部の暴露が言葉の技術に代わってしまう危険性、と先崎さん。
どうもそれらの逆方向に収束して、積極的破廉恥でライフハックしていこうぜ~。出来ない奴は敗者だから気にすることなし!ではないだろうか。ネガティブな属性は他者感覚喪失の免状みたいに変換可能なもので。
先の読者層からすれば、自己中な若者と自己中な老人の生産を果たしたに過ぎないのだろうか。
若者は分別などよりも、早いうちにひと山当てる方が喫緊で、老人は誰に憚らず余生を味わい尽くしたい。
根源的思考にとどまり、耐える必要を感じるってことは相当むずかしいことなんじゃないか。肉体的同調さえ必要でなく、自分にとっての便宜性さえあれば価値を顧みることもない。
そんな風な、あの主人公が娑婆に適用して意気揚々版みたいな人物を見ると、ますますこの小説が嫌いになるんですよ。
八つ当たりですけど。
折に触れて思い出されるこの小説が、私をこの不快感から逃がさずにとどめる。

(主人公よりもハラスメント男の描写の不快さがすごいんだけど。不快キャラとして描かれてはいるのだが、それがまあクドクドクダクダとムラ社会がどうしたこうしたと折に触れて持論を開陳して・・・男の腕力に任せて実力行使するでも脅すでもなく。女々しい、という言葉がイマドキ適切がどうかはわからないがこいつの描かれ方には適当だと思う。(別に私は、男なら婦女暴行させよ、などと言うのではない。同様に男性作家の描く女が雄々しすぎて違和感を感じることがあるが、何か人間の行動規範や価値基準のようなものに踏み込むと、自身の経験と対照させて、この性別ならこんなこと、思わないよなあ、という違和感に突き当たるくらいには、性差というものは存在していると思う。)この性格的に「絶対無理」な人物が、そのへんを障害でスルーできてしまう主人公とはある程度やっていけちゃう、てのを描いているのだが、これはある意味もう一人の爪弾きモノ側の主人公であって、主体的な理非を語らない主人公に代わって、その”異常”の視点から感じる”普通”の異常さを斬る、というのを言語で以てやってくれる。私は上でそれをやっちゃあおしまいだと評したけど、この小説、異常人物×異常人物なのです。「こんなやついねーよ」というキャラにライドしなけりゃならん。創作の世界に、現実にそのまま移植できるような人物はいないだろうが、大抵は何かしらの常識的価値で現実との繋がりを保つものだろう。世紀末荒廃世界を歩く主人公が全くの狂人だったら面白いでしょうか?試験管を眺めるように、ギャルゲーを非現実と冷笑しながらプレイするように、端から突き放した冷たさがある。読後から時間が経ってもこれだけ心にトゲを残すってことで、考えさせられる話だと、言えなくもないのですが・・・おすすめはしない。)
(・・・私が感じているのは結局のところ男性描写への反感なのだろう。これが私の共感の限界と言えば限界であるのだが、例えばギャルゲーが男性の夢見る理想しか描いていないなら、女性にとっての悪夢みたいな男性、つまり逆理想しか描いていないようなディストピアも同じように夢想的であると批判的に見る目はあっていいだろう。先の二人の対談で與那覇さんは、今作が著者も含めて性別が逆だったら同じような反響はなかったのじゃないか、男性は国家観を持つものだけど、女性だったら生活的視点の社会批判もアリだろう、という男尊女卑が隠れてはいなかっただろうか、と問うている。そういう適正があるとする見方が、特権なのか差別なのか、あるいは人間の進化の成り行き上の自然か?私には今判断できるものではないが、人間作品の作劇場の条件としては、どちらの性別を選べばどちらの性別がパートナーになり、こちらに寄り添えばあちらの非を問うことになる、という対照性がある程度は生じてくるだろう。(同性でも他者である以上差は生じる。)書き手と読み手の間で、共感できない視点の差というものは必ずあるよね。それを埋めるために意図を想定して見ると、ああこういう目で世界を見てるからこう描くんだろうなぁ・・・と。まあわからんけど。あんまり、露悪的なモノを私が好まないので、逆の夢見過ぎだろって思うんだよね。それもまたご都合展開だと思うのです。小説より奇なりというから、実際そういう男もいるのかもしれないが、面白いかどうかは別です。)


例えばの話、この世に男性だけになれば、女性に対する倫理から全く自由になれるでしょう。
アマゾネスの世界では、男性に対する対応規則だけがあって、関わり合いの中で育む倫理はないでしょう。
動物を全く利用しなくなれば、動物に対する倫理的問題を引き受ける必要がなくなるでしょう。
しかしそのような状態に至るまでに、自由になるためにどれだけのものを破壊しなければならないでしょうか。
倫理が文化を破壊する。やがては絵に描いた鶏や、馬車の彫像も、破壊し尽すことになるでしょう。
イヤ、それは極論だろう、と明快に否定できるものでしょうか。そういう歴史的経験が洋の東西であるものだと思うのですが。
中枢にどんな抑制心があったとしても、末端まではコントロールできないものでしょうから。