※つまり愚痴です。
感性を使うわざが全く手に付かないここ最近。というか3か月くらい。
我ながら沈降すると長い。
いや、ゲームなんかやってんのが悪いんですけど。
クリエイターはリアルタイムのエンタメに関心を持たなければならない、などという常套句が頭に浮かんでは、
己の美意識を欺くことが感性を磨きますかと反論したくもなる。
リアルタイムがアレすぎて闇の波動に飲まれてしまう。
キービジュアルに心惹かれないものを見て何になります?きっと何にもなりませんよ・・・。
つまり潜在的なお客さんへの呼びかけなわけですから、そこへピンと来ないものは生理的に求めているものではないのです。
もう少し具体的に言えば、どうしてもある種の癖の拭えない個人作家の作品でもない限り、例えばアニメなどの組織的プロジェクトのビジュアルは表現意図に最大に則したものが設計されるはずです。
キャラクター、色使い、エフェクト、雰囲気、動作、構図、キャッチコピー。
それらを総合して見れば、ああ、本編はこういう作りになるのだろうな、という予想がつくはずです。そうなっているはずなのです。そこに期待を抱かせるのが役目なのですから。そこに反応しない者は設定したお客さんではない。
ただ需給の関係外に居るだけなので、別にがっかりしなくてもいいはずなのですが。ただ、全体がそんな風だといよいよ私も老いたか・・・と感じるようになる。
いえ、いくらなんでも見もしない内にストーリーがまるわかりだとか、そんなことは言いません。そうした予想を理論的に行えるほどの鍛練も積んでいませんし。正確には、こういうビジュアルを見せるなら、自分の好きなこういうものではないだろうな、ならないだろうな、という消去法的予感です。絶対にこういう演出はしないし、できないだろう、ということ。
表現は表現手段に拘束されるものです。
分かりやすいところでは、キャラクターの感情表現はキャラクターデザインに拘束されます。
それをビジュアル設定の目的の外側へ、記号による制限を受けながら記号の限界を越えたことをしようとするから、いわゆる「顔芸」なるものになるのです。
少年漫画のキャラクターが急にゴルゴのようなシリアスなリアル顔になりつつ鼻水を垂らして絶句している・・・などは、最初から作品にそこまでの幅を作っておけば、そこではギャグとして成立します。
(漫画では画面内の全ての要素を個人の気ままに構成できるので、少なくとも作り”手”による統一感は保証されるが、アニメは映るもの全てを連続的に描かなければならない点で、恒常性が求められる。つまり作画の雰囲気が違うと目立つ。)
では、例えばゴルゴ的な仕事を営む萌えキャラ的造形の女の子を描いた作品、ならばどうでしょう。
普段は様式的美少女顔を見せておいて、狙撃シーンでは緊迫感を出すために急にゴルゴ顔になる・・・みたいな。
そういうのはなにか美しくないんですよ。
シリアスなシーンを予期するなら、それに対応できる、耐えられる絵を用意しておけばいいじゃないですか。
この場合は、可愛さの上限を何割か削ることになるでしょうけど。しかしあれも、これもで真に迫れるほど視覚世界は便利ではない。
一貫した美学などいらねーぜ、それぞれの場面でそれぞれの面白さを演出できればいいんだぜ・・・それもまた一興ではありますが、ではそれが演出的信念でやっているのか?といえば、ただ消費傾向に合わせているだけでしょう。
そしてこれは一番わかりやすいところのキャラデザだけではなく、全てが。
繰り返しますが、そういう層を狙ってやっている戦略に、横から正当性的な面で文句を垂れるのは正当ではない。
それでも文句を発したくなるのは、そんないつまでも続く需給上のお約束事に、飽きちゃったから、というごく個人的な感情による。
(その手のものを称揚して、氾濫させた後になって、でも最近つまらないよね、とか、言うなよ?と。消費者達には思います。)
特に某大手の続きモノなどは・・・いや、上述のように市場を見て作っている部分は、まだわかるのだが、色彩設計は??
いつまでそんな色を使っているんだと。もう15年以上そんなじゃん。流行に沿ったキャラに変わるのはわかる。しかし逆に、いかなるテンションの作品でも似たよーな色彩システムで済まそうというのは、堕落だろう。ホビーものと戦争ものを同じ色彩(や特殊効果)で表現するなんて無理だ。無理がある。
それでリアリティがないよね、ってのはさ・・・わかるじゃん。そのためのビジュアルじゃないんだから。縦しんば作品単位で表現意図があったとしても、現場でどんな事情があるのかわからないが(生産性だろうと邪推する)、表現を叶えるための設計をしていないんだからさ。
私は人々がいつまでも飽きないのが不思議でならない。
なんて文句言い始めたら終わりなんだよなー。エネルギーをひとごとに費やして・・・。
いやしかし、これだけは言ってもいいと思うのだが、というか言いたいのだが、[新海色彩+宮崎顔]のアニメなんてのは、クソだぜ。
創造性の真逆を行くところの、何らの表現意図も持たない、ただ「世間に承認されるところのアニメというものである」ことを示すだけの安直な記号性のキメラ。最低だ。大嫌いだ。そんなもののために作画作業があったことを思うと、生成画よりもウンザリする。
情熱と探求が無いのだ。
昨今の安全戦略的流行で作られるリメイクアニメを、それぞれの旧作(や原作)と比べて見れば分かると思うが、表面だけは現代的だとか美麗だとかの標榜で、実質のところはめっきり手間が減っているのである。「アニメというもの」のコツを使って作れるものなら、モノはなんだっていいから、あとは認知を問題にするだけだ、という態度が窺える。意志がないのだ。
おとながそういった態度をとるなら、そのように作られた(あらゆる)ものを見て育つ次世代の者達に時間効率主義が根付くのも無理はない。
個人的な趣味では、アニメは絵の領域として観るものなので、内容はどうでも見た目よければ楽しめる部分はある。
が、これは部分的な許容嗜好ではなく、作品の質を問題にしているに過ぎないと気づく。
前述のように、部分は目的の為に機能するものであるから、余程、見た目にしか興味がない人間が主導したものか、あるいは偶然、いくつかの才能がその瞬間に集結したのでもなければ、それ以外は悉く良くないが、見た目は素晴らしい、などということは、業界の動きが停滞し、人材に遊びがあるわけでもなければ、クリエイターの暴走も起こり辛いであろう最近になるほど、見られないものだと思う。(事情については外野の想像に過ぎないが。)
最近のモノは・・・と感じるのはいつだって我々のせいだろうと思う。
「時代が違うんだ」と言えばそれまでだろうか。
むしろ、時代の違いに評価を下せずにいるのではないか。「現在」を浴びすぎている。
単に素材として過去を使うんだ、と開き直るならまだ素直だ。
しかし、軽々しく「リスペクト」などと言う態度は許せない。リスペクトとは、大抵は情熱と探求へのアリバイ的擬態である。
オリジナルを越えなければならない。そこに、実際問題として今の時代・種々の条件では厳しいでしょう・・・なんて言い訳は通らない。だったら堂々と「パクってそれなりの価値を生み出しました」とする方が清々しいことだ。
(出版物においてもキービジュアル=表紙は重要で、形容詞的タイトルや煽る副題、”センスのいいデザイン”などで釣ろうとしている感には勘づかなければならない。例えば知識本では、「~の全て」が当たりである可能性は低い。まともな研究者は「全てを知った」気にはならないものでしょう。自覚したうえで売りとして豪語するのでは誠意が無い。そういうのを買っちまった恥ずかしい経験を悔やむ・・・。やっぱ立ち読みはしたいよね。)
しかし夏の厳しいこと。
楽しみにしていたことが、今はちっとも楽しくないのです。あらゆる気力を削ぐよ。
幸福な気分には気力を要します。不幸な気分ってのは勝手にやって来るものです。
この季節はネガティブに対してオールオープン・ウェルカムになってしまう。
というか、夏が来ること自体が不幸のような・・・。
まあ、この時期のトンボは好きですよ。
虫が嫌い。
特に半翅目なんか絶滅してしまえと思う。
蜘蛛を殺さないでくれ。頼むから。
カワイイうえに邪魔者どもを食ってくれるんだぞ?何が不満なんだ!?(見た目と糸と思い込みの恐怖でしょうね。)
だから不安商法は嫌いなんだよ・・・。
蜘蛛ならなんでもかんでも危害があると思わせやがって。
ただ、アース製薬のサイトで、それぞれの防除対象生物について生態と害を解説する中、蜘蛛については、ただのざっとした分類に、巣の張り方というおよそ防除に不必要な情報が図説してあるのには良心を感じました。
というか、害を紹介しようにも、無いもんな。
真に良心があるならジョロウグモじゃなくてユウレイグモなど家で見る蜘蛛を載せて、その害の無さについて記すと思いますが。
(生活上無関係な種類を挙げたってしょうがないじゃん)
ユウレイさんに羽アリとかぶん投げてみたらどうかな。良き同居人って気がしてくるはず。
こういうものに対する態度の基本のところは、こども時代に周囲のおとなによる接し方が影響するものと思います。
私の父は、誤解しがちなハナバチやジョロウグモを手に乗せて見せてくれたものです。母はそれとは逆なのですがね。
蜘蛛については、敵(虫)の敵(捕食者)は味方と思って、うまく付き合えるといいですね。
因みに、アリはアブラムシに味方するので好きではないです。(テントウムシが寄り付かなくなる)
まあ、大抵アリたちのおかげで奴らの発生に気づけるのですが。
バッタも嫌いです。子どもの頃から蜘蛛とカマキリの餌としか思ってな・・・ってドン引きかなぁ。
この時期、バッタを見かけたらまずそこらの蜘蛛の巣に放り込みます。
いや好き嫌いというか、実利的にハーブの敵がバッタと半翅目とイモムシなので・・・。
いろいろと解消しない。
吐き出しても、調子が戻らないのだが。
そりゃあ、抑えてはいますがね。吐きつくしたら異常者ですし。
異常ですらなく・・・。
いや、いや、なんだこれ。
ある人が腹を割るのは容易いと言えば、ある人は全てを暴露するのは無礼だと言う。
なんにしたって価値保証済みの型という正解があれば楽だろう。間違いない。
しかし、
しかし、自意識は厄介なものですね。
幽体離脱して自分を操縦し直したい。
アッチ系勢力の話題
そういえば、「令和の百姓一揆」というノリを横目で見ていたのですが、都心でデモ、つうのがアレ?って思わない?
少数派の農家が多数市民に向けて「一揆してるんだ」ってことを認知してもらうための行進じゃん。
市民感覚と分離してるんです。あ、農家たちがなんか言ってら。っていう。(自覚的にも「市民」でなく「農民」だから当然なんだが。)
そこはまあ辛いよね。店に並ぶ前と後で次元が断裂してるんだから。別に店で手に取れりゃそこに至るまでの人間の関与なんかどうでもいいです。って。
で、所得補償をせよ、ってことなんだけど、共産社民とくっついてやっているなら分かっていると思うのだけど、個々の農業が存続するためのブーストだというつもりならおかしいよね。
一律に死なないだけの食住だけは保証するから、利益なしで働いて、農産物生産装置になれってこと、でしょ?社会主義的には。
今回の主張は、重税=年貢で苦しいから一揆します、減税せよ、というのではなく、農業は利益は出ずとも頑張ってきた、けどもう限界だ、補償をくれ、ということで、それはともすれば増税だと思うのですが。備蓄米としてお上に取り上げられた=年貢、のイメージなのでしょうか?補償の先にどんな展開を見ているのかがあやふやで。
生きてさえいればそれ以上は望まない農産装置になります、という心がけならその信念は見上げたものなのですが。
この辺り、参政の「オーガニックかつ100%自給」という夢物語と、相当なテコ入れをしなきゃならんという点で通じるところがあります。
無農薬で自給っての無理でしょ?
品質・供給が効率化しません・安定しませんってことなんだから、今更、不揃い・虫食いを標準にして消費者が満足できるはずもなし。
ただ最低生存保障はするからただ生産せよと。利益は出ませんと。そうでなきゃ無理だと思いますがね。
国策として農業についてのみ限定的社会主義で自給しますっていう。農民という階級ですね。
仮に、そんな体制ができたとして、必要な割合がどれほどのものかは私には分かりませんが。
(仮に農産は成り立ったとしておいて、水産は輸入ですってことになるのか?生物濃縮だとか放射能だとかは問題にせんのか?)
まあ、現代に敢えて農民・百姓を自称して一揆を演ずるってのが、いかにも時代錯誤なパフォーマンス的で軽はずみに見えますから、差し当たりの主張のために左のノリをして得があるとは思えませんがね。
なんにせよ(具体的政策を望むにしろ、社会的認知と地位向上を望むにしろ)多数の意識に訴えなきゃならんということを分かっているのですかね。
大衆に(農家は既に「大衆」ではない。)、ああ、農家さん大変だなぁ、支えなきゃ!と思ってもらわねばならない。
そこで少数にも関わらず、大衆運動的に偽称して多数を動かそうぜ、なんて態度は呆れられるだけではないですかね。
(「令和の百姓一揆!!」と掲げられて、なんか心に動くものあります?第一に「はぁ?」と思うのでは?私の性格が悪い?)
仮に民意がおおよそ統一されたとして、現実に反映されるかは・・・何とも言えませんが。
ともかく、多数の同調を望めないスローガンなど、少数派の実情を表面的印象の影に追いやるだけで、逆効果だと思います。
普通に考えて、一般人が一体になって「百姓一揆!」なんて叫ぶさまが思い浮かびますか?
だいたい、欧米並みの所得補償、欧米並みのなんて文言をいつまでやっているのだか。
日本の政治において(特に左が持ち上げる)「欧米並み」という前置きがお座なりの矛盾したご都合論にしかならんということを爺様方はいいかげんわからないのか。
人手・次世代・跡継ぎの問題を考えるなら、それなりの言葉を探らなきゃ。そうでないから、金を寄越せと言うのが当座の訴えにしか見えんのだ。
スローガンというのは良くも悪くも主張の表層を覆います。
少数派が内輪で頷き合って満足気なだけの言葉では、身内の結束は強めても大衆は動かせんでしょう。
それに、果たして、この規模で農家の何割が参加あるいは同調していたのか?
ちょっと性格悪いですが、少数の内の少数とか、アッチの助勢だったら・・・。って思わせるから、ごく主観的には「はぁ?」でした。
・・・YTでエンカウント率90%の転職広告なのだが、毎度その面見せられる方がモヤモヤするんだよなぁ。
何が悲しくてイケメン様に人生を導かれにゃならんのか。
ごめんなさい。イケメン俳優さんは悪くない。
しかしだな、理想像の呈示が広告の常だとしても、洒落た奴が野暮ったい奴を導く式構図ってのがどうも、気に入らない。
オチ要員みたいな扱い。高次元との対比のために用いる三枚目。このサービスで未来が開ける!としておきながら、解決不能な階級差を同時に示すのはムゴイのではないか?斡旋業なんか階級差そのものを取り扱うものですし、イケメン業に転職は出来ないんだから。
なにも、遺伝子の出来が不平等だとか今更なことに憤慨して見せるつもりはないが、不安商売は嫌いです。もっと安心感を持たせるような演出が出来んものかなぁ。私が哀れにも過剰反応しているだけか?
まあ、そのままのあなたで、その生活のままでいいんですよ、なんつったらサービスの宣伝にはならんのだけども。
誤解しないで欲しいが、美しいものは好きですし、価値を感じます。少なくとも親・俗的な絵描きがそれを否定しても始まらんのでして。
今もイケメンを描いている最中だったりして。
美しくないのは、注目を得るために感性に揺さぶりをかける、そのために手軽な手段だとして、不安や不快を持ち出す手口なのです。
イラつかせてでも興味を持たせる、から、イラつかせて興味を持たせる、という風に、安易に美しくなくなっていく。
私がフィードバックハウツーを疑うのはそのためです。価値観は相場に過ぎないのだろうか?