と言って、ある人たちが生成イラストに突っかかるのは、そのAIによる生成という行為を悪いことだと判断するからです。
精巧な造形作品を見て、
「3Dプリンターだろ!!」
と食って掛かる人は殆どいないでしょう。(見たことは無いが、いないと言い切れる自信がない。)
荷運び人に、
「車を使っただろ!なぜ足で運ばない!!」
などと詰め寄る人もまず、いません。
その人が労力を減らすことが問題視されているのではない。
AIが是か非かという議論では、既に何べんも繰り返されて言われていることではありましょうが、現状のたいていのAI生成には盗みの疑いが付きまといます。
盗みの疑いがない・・・つまりそのAIがクローズな環境で使用される、ということが明らかなのであれば、3Dプリンターと似たようなものでありましょう。
私が、私の創作物のみを参考にさせて、AIに絵を作らせることを、生成イラストに反対する方は咎めることが出来るでしょうか。
当然、出来ます。
提供されているAI生成サービスはクローズなものではないからです。
そのAIには既に私以外の手による創作物が”学習”されており、判断と出力にそれらの影響を無視できないからです。
アップロードされたあなたの絵だけを学習させて生成します・・・と謳うサービスがあれば、別でしょうか。
その文句が信用に足るかどうかの判断がつきますか?
本当にその通りのサービスなのだとしても、私の創作物をどのような情報として取り込むかという判断をさせるための学習が既に行われているでしょう。
赤いリンゴと黒い車の画像をアップロードするだけで、「赤い車」の画像を生成できるのなら、どこの何を色と言い、形と言い、リンゴと言い、車と言うのか、それをわかるだけの学習が済んでいるということです。
そこに盗みの構造の疑いは晴れません。
では、私がAIを私のオフライン環境に設置あるいは自作して、イチから私の創作物のみを学習させて絵を生成させたらどうでしょう。
ここまでいけば流石に、生成された絵は私の創作物であるのだと、疑いなく認められるだろうと思います。
と、すればですね、考えたのですが、アーティスト集団とかクリエイターチームという方々がいらっしゃるでしょう。
仮にクリエイターチームAだとでもして、そのメンバーのみの創作物を学習させたAI「A´」を公開・販売してはどうでしょう。
「わたしたちが育てました」という生産者の顔が見える生成AIです。
こういうものが既にあるのかは知りませんけど。
これなら
「A´だろ!」
と来ても好き嫌いの話でしかありません。
そんなA´が本当に盗みの構造からクリーンなのかどうかはチームの信用によるところです。
今、生成イラストには「AIで生成」というラベルを付けられているのを目にします。
それだけでは盗みの構造を晴らすことにはなりませんが。
手描きにだってパクリはあるだろ、そもそも何かの影響を受けて描くのだろ、という話は余所でいくらでも見られるでしょう。
そこにあり得る盗みの構造が、問題視するべきレベルなのかどうか、という話なのです。
パクリだパクリじゃないのってこともしょっちゅうやってるように見えますが。
だからって、創作活動という行為は、人間性にとって悪なのだ、とはならないことが今日の妥当性です。
この盗みへの忌避感は即物的な範囲にはとどまりません。
生成イラストへの反発は、
「いいイラストだなーと思ったのにAIかよ!盗作かよ!騙された!」
という心情も含まれると思います。
某怪盗じゃないが、気付かないうちに心を盗まれている。
そこで惚れ直せない限りはウラミを抱くことになりましょう。
しかしこれは、
「そんなことぉ言われても、日頃から目と感性を鍛えたうえで、ちょっとの見込み違い程度じゃガックリ来ないだけの自尊心を持てば、済む話じゃないか、別に、あんたを騙そうとしてやってるわけじゃあねんだからさ。」
ということで済んでしまうイチャモンでしょう。
気に食わないものを排除しようとする前に、己のいたらなさに目を向けなければ、世は世紀末世界です。
最近、絵の界隈で、人を評価する能力に掛けていた自尊心を、だまし討ち的に傷つけられた・・・そんなケースを見たのでこの文章を書いているのですが。
イラストレーターにかけていた信用を裏切られた。
金を盗られはしなかったが、時間と精神を盗まれた。
平均月収以上を掛けた依頼をすっぽかされて、本人は気ままに遊んでいて顧みもせず、ついにキャンセルを申し出るしかなかったと。
この件、世の中には無責任な絵描きがいるもんだ、そういう奴には頼まないようにしよう、という話では済まず。
こんな不誠実が横行してりゃあ、絵描きを見限ってAIを使うのも当然だ、という展開をしていたのです。
なんでAIが話に出るかって、現代にはそれがあるんだから当然だとは言えましょうが。
つまり、目的の絵を描く能力を持たない人間が、絵描きの横柄にも我慢して頼むしかなかったこれまでと違って、AIを使えば即刻納品クオリティバツグンでしかもほぼタダ、使わない手が無い、ということです。
これは当事者が、もう絵描きは使わん、AIだ、と述べているので、こういう展開になったのでしょう。
その判断は私が言うまでもなく自由なものです。
ただ、生成AIの盗みの構造を心に留めずに、絵描きを悪のように扱うなら、いささか能天気な話です。
どんな聖人だろうがクズだろうが、彼の人格と彼の生み出すモノとは切り離せないはずなのです。
現状において、生成イラストの発展の可能性を、絵描きの発展の可能性と切り離せない以上は、AIを頼みとして絵描きとの離別を宣言する、という行為に、私は何か便宜的なゴマカシを見出さざるを得ません。
少なくとも、現状においてそれは、上述したクリエイトAI「A´」のようなものを、チームAに信用を置きつつ利用するのでもなければ、放言というものになるでしょう。
自己発展が可能なAIが既にあるのなら、私が無知だったということで、失礼なことを書きました。
ただ、当の絵描きを批判する方々の観点にはおかしさを感じます。
絵描きの不誠実さを非難するのは正当です。
しかしそれも、突き詰めれば、人を見る目がなかった、という話です。
契約なるしかつめらしい言葉を持ち出しても、起こったことは、人が人を信用して裏切られたのだ、ということには違いはないでしょう。
何を選んで何が起き、そのとき何が出来たのか、これを評価しなければ、批判は恣意的なものになります。
私が見るに、その件に関してたいていの人が使うところの、法・責任・社会性などの言葉は欺瞞です。
法を持ち出すのなら法的処置を。
責任を持ち出すのなら、人への見込み違いの責任についての妥当性を。
社会性を持ち出すのなら、ウラミを公然と暴露する行為の社会的価値を。
それぞれの観点で考えもせずに、一方への非難の根拠として使うなら、批判はワルグチの方便でしかありません。
私も修辞で迂回したワルグチなら使うので、ワルグチ自体を否定できるものでもありませんが、少なくとも批判とは分けるのです。
逆に批判のフリで人をバカにするだけでは、明日はなんにもよくならんでしょう。
誰かの見込み違いのたびに催される、人格否定のお祭り騒ぎへの参加を心待ちにしているのなら別ですが、問題に向き合いたいなら言葉の使い方を考えるべきです。
剰え言葉までAIに託しているようじゃああ・・・コンピュータが人間という端末で茶番をやっているに過ぎんのですか。
私がネット上の人間に掛ける期待が、そもそも見込み違いなのだとは、あまり思いたくはありません。
ネット上の人間・ネット上に現れる人格に本気になるなと、それはわかりますが。
ネットの人間など、人ではないと思え、そして人でない振る舞いをしてしまえ、という考えは受け入れがたい。
しかしこの件、私も絵描きなので、ぐっさり刺さりました。
私を期待してくれる人にはがっかりさせたくない。
SNSの話題に言及するのにアンフェアな気がしたので、コメント欄を開けました。
(と言っても、私が管理するブログです。そこは承知願います。)
ブログ開設時からこっち、アンチスパムの導入が煩わしくって、閉じっぱなしだったのですが、これも機会と思って、今回から開けてみます。
