コンビニ人間は読んでたんだけど

與那覇さんの本を読みました。と言っておきながら、対談のところは読んでなかったんですよ。学者同士の言葉のやりとりが小難しくって、後でゆっくり読もうと。で、今、「歴史なき時代に」の與那覇潤×先崎彰容の対談部分を読んだんです。

今日の日本のリアルの一面として「コンビニ人間」を話題にしているのですが、私、この対談部分を読まない内に、「與那覇潤書店」の動画が気になって見たんです。そしたら、あるじゃないか、ご病気からのリハビリ期のコーナーに、コンビニ人間が。

えーっ?と思って。もう、「知識人への忖度」をしちゃうよね。そんなに、意味がある本だったかなぁと。しかも、心を病んだ人の回復に役立つのか、と考えると更に疑問で。いや、けっこーストレスな本だったでしょー、と思って。俺が病んでると言いたい訳じゃありませんが。

つい1年か2年前に読んだばかりだったので、そう忘れはしません。これが芥川賞かぁ。と。読了時にもそれなりに考えたと思います。多分、芥川受賞作は始めて読むから、(エンタメじゃないなら)なんかしら鋭い思想とか、世情の反映とか、問題提起とかが仕組まれているはずだと(そういう賞なのかは知らないが)。で、もう一度頭巡らしたんだけど、キャラ造形は迫力だったな、とか、生活的リアリティの描写力は優れていたな、ってくらいしか・・・。

生活描写は共感できるんです。歯車のような生活、それは仕事面では部品になって、滞りなく回ることの気持ちよさがあるのに、それが家では、ただガソリンを入れて暗い車庫で朝までエンジンストップするだけのような無機質な孤独になる。あと、やりとりする人の所作・言葉をコピーして自分が使ってる、というのはわかるなあと。

でもお話の方は、これは偏見だと思うけど、ああ、女性の作品だなと。相手役にありえないほどデフォルメされたクズを設定することで、相対的にデフォルメされて誇張された自分の哀れさに浸る、という、被害者のスタンスが。

これは性差別の意図ではなく、男夢でもなく思うのですが、女性限定で、レイプって、テーマになるよなぁと。女性の場合は性機能的な宿命に否応なく直面するから、社会的/生殖的な”さだめ”に、内的自己がどう抗うか、というのが克己のスタイルになる傾向があるように思います。まあ、私の読書経験で、少年が魔女に童貞を食われた、っていう筋の話を読んだことがないので、偏った見方かもしれませんが(それも多分、暴力にはならんで、男夢に過ぎないでしょ。もしくは、繊細な少年の理不尽な童貞喪失への感傷などというテーマが、本気で話になるとは私には思えない。なるとしたら逆に女夢だろう)。性差別なんでしょうか、これ。

で、コンビニ人間の主人公は、精神的レイプ魔とも呼べる男と付き合うのですが、自身のネジのはずれ具合から、それを意に介さない。これも、金があるとか、仕事が出来るとか、法的知識とかを用いて、かわいそうなんだけど頑張ってる、負けない自分という、男性的世界観に対しての”したたかさ”願望の、変種なのかなと。ハラスメントなんて効きませんよ、と。

そういうのをどうも肯定的に見れないのが、デフォルメクズ男の描写って不可解で気持ち悪くて。何もそこまで悪辣に描かんでもと(時に不可解で理不尽な暴力の権化・・・という男性性の見方を、間違ってるよ、などと言う気はないです)。”男性が”読んでも楽しくないし。現実ではありえないキャラクターがありえないように絡んでるって点ではギャルゲと同じじゃん。それはまだ”都合のいい世界”だから、胸やけするくらいで済むけど、”批難するのに都合のいいほど悪くできた世界”というのは、敢えてマズく作ったメシのようなもので、食いたくないんですね。

なわけで、私の感度の範囲で、現代に斬り込んだ作品として見るなら、「世界に一つだけの花」的な「自分らしさ」の発揮を奨励したって、結局は、歯車の潤滑がしっくりくるのに日々満足している程度が、現実レベルでは関の山じゃないか。歯車に名札をひっつけただけの自己同一性が、オンリーワンということなのか。そういう問題提起かなと。

あとは、ADHDやASDの告白、統合失調症の名乗り、「繊細さん」みたいなワード、そういうものが流行った後で読んだせいで、この作品は走りだったのかなーと。

それを、與那覇さんは、「障害がなきゃスルーできないほどの抑圧社会」と見るのかあ。と。私は、弱者の視点を使う手法へ、まず疑念を持ってしまって。それでいて、主人公は、嘆くでも、憐憫を乞うでも、権利を主張するでもありませんから、それを訴えとして見る視点に至れませんでした。上術の通り、男性描写への反発ゆえでもあると思います。人の心無さは、男女の区別なく描かれてはいますが。それでいて引っ掛かるのは、私の感性が肉体に引っ張られている証明でしょうか。

また、「もし男性フリーターの作だったらヒットしたか?」とも與那覇さんは言っていて。私レベルだとだいぶ品性が落ちますが、「面白がられてるだけなんじゃないの」「この本の選出自体が、世相なんじゃないの」っていう問いはやっぱりあるんです。人生うまくいかない男性の告白の類はネットに転がっていますし。それを女性視点のフィクションで、卓越した文章力で投げかけたとして、そこまで新しいのだろうかと思いました。

女性側特有のプレッシャーを描くにしても、主人公にしろクズ男にしろ、キャラクター造形が空想的に大仰なので、それが実際的な訴えなのか、表現上の技巧なのか(ミスタービーンなのか)、どう受け取ればいいのか。本格派なレディコミ原作だと仮定するとそれらの要素がハマるような気がします。

先崎さんの言もわかるような気がして。「異端者」として自信を外側に配置すれば、自動的に視点が「客観視」になるというロジック、それは批評として成立するのか?ずるいんじゃないの、ということは思いました。そこを與那覇さんは、現実を最大のリアリティだとただ肯定する破廉恥文学と比べたときに、コンビニ人間には突き放した批評的視点があると。確かに、かわいそう文でありながら、また生活的肉体描写も優れていながら、読者を感情の同調へ誘う肉体的アプローチ、という感じは一切ない。むしろ、主人公の感情でさえ試験管に入れて眺めているような冷たさを私は感じます。そこまでいくと、個人的には読んでて辛いものがある。コールドなものって読みなれてないんですね。

まあね、知性ぶるのは危ないんで、下手に深読みしなくても、できないんならまたそれもいいかと。私はそんな感じです。批評家じゃないんでね、自分にとってどんな意味を見出したか、つまり面白かったかどうかを基点に見るくらいで、読書はそれでいいんじゃないかと・・・。

この「與那覇×先崎」対談は読み易くて面白かったです。ショック・ドクトリンの左翼とか、オラオラ啓発と、シワシワ悟りとの中間の不在とか、ウンウンと頷きつつ・・・。一番我がこととして実感できるのは、読むことが自殺を、評することが他殺を防止するんじゃないか、というところです。その効用は読書でもブログでも、描くことでも感じています。

これは虚構の話ですが、DDLCのユリは、読書をやめて主人公に傾倒してしまったから、ああなったんでしょうね・・・。他者をなくそうとして、ひとつになろうとして、うまくいかなかった。

いやー、DDLCのキャラ造形はテンプレを装ってよくできてます。

血液型の本ってありましたよね。今なら、(言うほど今でもないか)繊細さんの本でしょうか。それで言うならば、DDLCは陰キャのゲームです。陰キャ入門ですよ。陰キャなあの人と付き合いたい人にオススメ!


まとめ的に、「コンビニ人間」の正直な読後感を言えば、発散も希望もないディストピアなんじゃないかと、息苦しく思いました。

主人公を異端者に設定しているのが奇妙で、「辛いの、かなしいの」ではなく「おかしいな、うまくいかないな」なんですよ、感情が。主人公が何を感じているのかわからないけど、私だったら、嫌だなぁ。という、外側から観察する視点での感情移入しか起こり得ない。動物ビデオへのアテレコのような。そのように距離をおいて俯瞰視することが、主観的な感情のリアルを訴える私小説などとはまた違った、現代を描き出すリアリティの手法なのだろうか。私は、それが自然な共感を喚ばない点がネックだと思う。

主観的訴えには、アンタが思ってるだけじゃん、と返される可能性があるが、俯瞰的な仄めかしには、(その架空の人物が体験しているからって、)だから、なに?と取り合われない難しさがあるのではないかと、思います。但し、私に対しては上記の息苦しさを感じさせている点で、成功なのかもしれませんが。それこそ、著者の村田さんの筆力なんだろう・・・ということでしょうか。

比べるのも違うとは思いますが、「刑務所のリタ・ヘイワース」で、仮釈放中のレッドが、1から10までわかっている刑務所の生活に戻ろうか悩んだぜ、というくだり。この、不安でも希望へ向かう感覚の方が、私は好きだなあ、というところでした。


例によって対談読了以前に見ていた與那覇さんの記事

Sさんが、與那覇・開沼対談に対するHさんの呟きに、便乗する形で與那覇さんを中傷する呟きをした

ことが書かれていましたが、改めて見ると、Sさんに引用されたHさんの呟きも、面白いなぁと思って。

[日本文化論の欠落が最大の「盲点」]、というタイトルのついた対談。

開沼さんの新著「日本の盲点」についての話を皮切りに、両者が自著を参考に上げつつ現代について弁論している。その流れが、日本人が自己の性質に無自覚ゆえに現代に顧みられることなく起きている問題、という向きになったタイミングを踏まえつつ、再度、開沼さんの新著の内容に絡めて、最後に聞き手が「いま、日本文化を論じること」について尋ねる。

それについて、「自著の宣伝をまぶして「日本文化論」は最後の節にしか出て来ねえ」「最大の「盲点」という割にたいしたこと書いてねえ」って、いったいHさんが何を突っ込みたかったのかわかりませんね。文脈を踏まえず、要素を取り出して毒づいてるだけに見えます。

「物語が伝わらない」ってこういうことなんだなぁ。Hさん、編集者だそうで、著作もあるらしいんですけど。

編集者なりに、タイトルが不備だと言いたかったのでしょうか。(いや順当にアンチサークルの人に見えますが)

まあ、本題のSさんの中傷発言に比べれば、意味は通じますが。痛点を突こうと上手いこと言おうとして意味不明なポエムを繰り出す、これで学者って、おっそろし。

レッテルを貼られるのは嫌いなので、人にも積極的に貼りたくはありませんが、Sさんの記事をちょっと見たところ、むしろあなたがご病気なんじゃないかってくらいの、偏執的僻み交じりの侮蔑をぶちまけ、先回りの被害妄想への独り相撲的反撃に終始した病的内容に見えます。流し見しただけで渦巻く悪感情に心臓がやられそうです。何がおかしいって、鈍才、鈍才と繰り返し名乗るくらいなら、常に自分が間違っている可能性に目を向け、改めるべきを探し、訂正も厭わない姿勢でなければならないはずです。でなきゃ、単なるバカの開き直りでしょう。

それは誰の考えなんですか!? Sさんの被害妄想ではないのか。

鈍才には鈍才のプライドがある、と言っても、完全にそのプライドの出しどころを間違っているように思われますが。ご自身の研究の意義を証明なさればよいのに、ご自身の言動の意義を証明することに必死になっておられる。

こともあろうに、相手を犯罪者予備軍扱いする始末。自身の愚かさの表明を、まるで免罪符の掲揚であるかのように振る舞う人間が、果たして犯罪者といかほどの相対距離に居るのか、顧みるべきでしょう。

(俺は與那覇さんのファンネルではないので、これ以上関わりのない他人を貶すのはやめておこう。てか、與那覇さんの記事で知ったんだけど、「ファンネルを飛ばす」が一般に使われる慣用句らしいのが驚きなんだが。ネットスラングじゃなくて?)

共感するとすれば、「歴史観」を提示されると、自身がそれを持たないことに、ちょっと恥ずかしくなる気持ちなら私にもわかりますけれど。やっぱり、與那覇さんが鳴らす警鐘が向かう当事者の方にとっては、気に食わないお説教なのでしょうか。こいつに啓蒙されてたまるか、と思う相手、領域、私にはあります。

全くの啓蒙って、不可能なんですよ。啓蒙される素養がないと、啓蒙されないんです。努力できることが才能、と言うのと同じように、啓蒙されえることが知、だと言えます。それは才や素質の優劣だというんじゃなくて、体勢、状態、アンテナの方向、みたいなもので。しかしその体勢を作るのも経験ですから、啓発本を数を買っても無駄だというのは、経験の延長上で受け止められることしか、自分に入ってこないからです。アンテナの方向というよりは、周波数でしょうか?アンテナを何本立てたって、同じチャンネルしか拾わないのであればね。

などと、私が言うまでもなく、與那覇さんは、啓蒙とは別の道を探っておられるようです。


あ、私が「コンビニ人間」について、理不尽な評価や意味不明な曲解などをしていたら、右にフォームがありますのでそっと指摘してくださるとありがたいです。あまり理解できないまま批評している自覚はありますので。