揺るぎない自己など持てない

私は他人の考えに感化されやすい。

友人Pくんとの会話の中で、ああ、それは○○さんも同じこと言ってたね。とか、ほら、□□さんが言ってるように、アレだってことを、俺も言いたいんだよ。みたいな返答をよくしてしまうのですが、何かこういう発言が癖の人物、いたなあと。

ああ、「嘔吐」の独学者だぁ。

Pくん「お前と同じように、誰かの言葉を参照して話してくる奴がいたけど、俺にはわからんね。自分というものが、お前にはねえのかよ。」

彼との会話において、二人の見解の違いが、結局のところ、絶対的自己を持つかどうかの違いに行きつくことが多い。

彼は、自分の音楽的理想(技術は別にして)は誰よりも優れており、それがある限り、自分の他の部分が他人と比較してどうあろうが、自分の思想・立場・自分が自分に与える価値が揺らぐことはない。というようなことを度々、私に語る。

揺るぎない自信を持てる分野をひとつ持てれば、そこを基準点に自分を定義できる、と言っているのだと思う。

私はと言えば、そんなの全然ありませ~ん。もー、かぶれやすいし。理想は外部にあって、それとの比較で自分の立ち位置を見ている。

Pくんにとっては、心から尊敬する師・目標、みたいな人物はいないらしい。バッハを認めても、音楽的解釈では自分が上を行くのだとか。私はそれを聞いては、たいしたやつだなと返すのですが。そこまでの自信がどこから来るのか不思議で、羨ましくもあります。

私も最近になって、表現の上での自我を感じるようにはなりました。ただそれは理想の相手に対するカウンターみたいな、例えば、メカ絵で言えば小松崎・高荷大先生に追いつくなんて出来ないが、但し彼らに描けない・描かないものが俺には描ける。という。後出しじゃんけん・間隙戦法であって。後世代の人間のせめてもの抵抗です。

思想に関しても芯がありませんので、ただ、筋が通っているな、と思える方の考えへ、導かれるのみ。

いいのかなぁこれで・・・自分で考えるってことを、忘れがち。他者の引用をするときに、何も考えていないことによく気づかされます。

絵についても、わからなくなるのです、何が描きたいのか。何を描くべきか。

私の原動力は、私の見たいものを誰も描いていない不満からなので、これも動機が外部を基準にしています。自分の内的世界なんかどうでもいいと思っている。自分でも見えないし、そんなの。

ツイッターに居た頃に面白いと思ったのが、交流させて貰っていた絵描きの方が、自分の絵の理想とのギャップについて、イマジナリー○○にダメ出しをされる。ということをよくおっしゃっていた。推しの□□のお顔はこんなもんじゃないと、その側近キャラである○○が、彼女の脳内で叱るのだそう。

これ、なんかいいなと。私は学生の頃は、客観視の方法として、今、後ろで先生が見ていたら・・・こう言うだろうな。これじゃダメだろうな。という思考をしていましたけれど(多くの人がするんじゃないですか?試験会場とかで。)、判定を仮想の人物にさせるという思考法もあるのかぁ。

自分の内にあるはずの理想を求めては、不定形な美意識の迷宮へ入り込むことがしばしばあります。脱出するには答えが出るまで彷徨うか、他人の美意識を用い一応の納得をするか。だけだと思いましたが、そこに、内なる他者の存在の目。という想定をしてみるのは、迷いを打破するにいい方法かもしれませんね。

それが神であったりするのかもしれません・・・あるいは商業の神=オキャクサマという場合も。


ついでなので言及・・・小松崎・高荷両先生の作品に対する感情

・小松崎———–ゾクリ・生の光景

・高荷————–うっとり・懐かしさ

写実性のある高荷さんの絵の方が、(私にとって)ノスタルジックに感じられるのは、その精細な描写と実写的なコントラストが記録写真に似た印象を与えるからでしょう。メインの部分は写真(当然、モノクロの)を見て制作されているのでしょうし。

高荷先生は絵の中に躍動的な物語性を埋め込む方ですが、それはライブ映像というよりは切り取った一瞬のように見えるのです。画面の中に導かれるというよりは、その美しい瞬間に魅せられる、という感じ。

一方、小松崎さんの絵は生の迫力です。正確さという意味での写実性がある絵ではないけれど、小松崎さんがきっと今、その目で見ているのであろう光景、先生の立たれている場所へと、容赦なく引きずり込まれる。そこにはエンジンの怒号が飛び交って、鉄くさい、爆炎の血しぶきが降りかかる。俺は、なんてところへ来てしまったんだ、とゾクリとさせられる。絵の中には、今そこで動いている世界・続いている時間が、押し込められています。と、まあ後付けで言葉を捻ってはみましたが、なんでかわからんけど小松崎先生の「帝国連合艦隊」を開くと毎回ゾゾゾーッと総毛立つのです。他の絵描きの絵を見てもならないんです。無意識で感嘆しているのか、あるいは拒絶しているのかもしれませんが、身体に訴えかける絵っていいなと。

このような絵を見ると、特にメカイラストの方面では、もう小ぎれいな、装飾された絵では満足しなくなる。戦場でインスタ撮ってるんじゃねえぜ、と。

しかし小松崎先生の絵仕事のバリエーションときたら、時代・冒険・科学と題材を変えて。すごいとしか言えない。