てがついていなく

頭の固さアピールみたいな話題なんですけど、

「~していなく、」のような、書き方がここ数年で急激に増えたような気がするんです。

これ、やたら見かけるけど耳で聞いたことはない。口に出すなら、カジュアルでは「なくて~」であり、フォーマルでは「おらず」だよね。間が悪いから口語だと使わないんじゃないかな。

で、こういう「日本語の崩れ」的な批難は、気に入らねンなら古語でも話してろ、て具合に斬られて終わりなんで、これが悪いと言う気はないんです(見るとムズムズするんだけど)。

ただ、どっから広まったかが気になるのですよ。言葉の変化は新語の流行と違うじゃないですか。こうして、これからの時代は「~やらなく」、になっていくんだなぁと、なんとなく始まってしまったこの変遷の歴史的起点を掴みそこねた口惜しさ、時代に取り残された寂しさを感じます。おそらくは若手インフルエンサー→ティーン→一般、という流れなんだろうと予想します。

この「て」抜き書きが旧来の文法に則しては間違っているのか、本当に最近出来たものなのか、私にはわからないんですけど

俺の思い込みなのかなぁ・・・。

話変わりまして、

どっかの言葉を再現するときは、崩しちゃいかん。

朝ドラで故郷の方言を、馬鹿の一つ覚えな語尾変化とマイナー副詞の連発で歪に再現されたとき、あれは愚弄(というほど深刻ではなく、ケッ、都会者めバカにしやがって、ぐらいの気持ち)でした。

まあ地元でも、ご年配と会話するときに切り替えたり、あとは言葉を軽く・親密に・少々おどけてみたいときに語尾を変えたりするだけなので、常用もしてないし誇りがあるわけでもないのですが、それでも変に使われるとイラッとくるものですね。愛着はあるんだな。

エセ関西弁を聞く関西人の気持ちがわかったような・・・。関西弁みたいな日用語の場合だとまた違うのか・・・?


言葉の移ろいについての発想なりディベートなりは、大抵の人が義務教育中に行っており、その流動は自然なことだが差し当たり場所や相手によって弁えるべき作法もある、というような結論に至るものと思いますから、それを前提として改めてネットという公の場で意見を言おうというのが、敢えて個人的にモノ申したいからであって、つまりは「俺は気に入ってねえんだ」ということに他ならぬのですが、まず前置きとして自分の考えが主流で正しいという訳ではないということを私は解っております、と言い訳をしておかないと不安になるのでこんな文が必要なのです。

あーでも、「スベカラク」を「全て」のカッコイイ言い方だと思ってる人にはそれは間違いだと言っておきます・・・。

と、言いつつ私も、須らくの正しい使い方っていまいち分かっていない。

例えば、「須らく対策するのが当然である」「食卓は須らく清潔にすべきだ」

って言いそうになるけど意味が被ってませんか?

「ところでカンワキュウダイして」とかも間違いだね。

別にこんなのでマウントとってる気はないのですが、言葉の変化にしろ誤用にしろ、使う人は最初に”そっち”を見たか聞いたかしてるんだよね。それにいちいち突っ込むのも野暮だから、いずれ(その人の中で)正しくなってしまう。

誤解されないように私の恥を晒しておきますが、つい先日まで「乳離れ」を「チチバナレ」と読んでいたのです。「チノミゴ」と同じ発想が出来なかった・・・。間違ってると思わないから調べることもないし。何より耳にしないし。

「慧眼」をいつまでも「スイガン」と言っている友人に勇気を出して指摘したところ、チバナレのカウンターを喰らったのでした。バカ。

あと、ドクセンジョウなんて言ってる人も見たことありません。