與那覇さんと呉座さんの新著を予約しました♪
與那覇さんのnoteで、先んじてあとがきを公開されています。
冒頭で、相手をほんの少しでも不快にさせたらハラスメントと見做されうる、という米国で勢いを増す「マイクロ・アグレッション」なる概念を挙げています。
これは、私も友人Pくん(今更だが、これは彼の活動名の頭文字で、英名人でもプロデューサーでもない)との、日常会話レベルで感じていることでありまして。
ある時期から、お互いのモラルについての考えが、たびたび衝突するようになりました。相手との「距離が近づく」ことは、両者の関係において必ずしも喜ばしい作用ばかりを生み出すとは限らないようです。相手との「ほんとうの距離の遠さ」に気づいてしまいかねません。
さて、何か一方の言動が、相手の気に障ったとします。
私は、相手への不満を伝える際に、問題点への直接の言及をせず、遠回しな言葉に徹して、相手が自ら気づくまで粘る、ということをします。これは私なりに、言葉の応酬を避けて、穏便に解決するための方法です。これを試みるのも、3度ほど同じ事態を我慢してからなのですが、問題は、所詮他人の考えなど分かるはずがないということで、相手が自分に近い思考をする人間でないと通用しないようです。同じ考えを持つ人間なら、3度も相手の気を損ねるまで、サインを見逃しはしないでしょうし、そもそもそんな言動をしないはず。
相手からすれば、心当たりのないことについてネチネチと、それも段々遠回しになりながら追及されるのがウザったいようです。その結果、相手の意識の焦点がこの、気づけよ、気づけよという「遠回し説得」のウザさに移ってしまい、解決からはむしろ遠ざかる。
というわけで、この「俺の気持ちを察しろ」な方法は、既に起きた事態を治めるためには、役に立たないということを、Pくんとのやりとりから学びました。
では彼は、同じ事態にどんな方法で臨むのかといえば、相手から自分を不快にする言動をされた場合、都度、即座に指摘して、謝罪を求め、以降はしないように戒める、というスタンスだそうです。これも彼なりに人生経験から至ったもので、以前は私と同じ考えだったと聞きました。けれどそれでうまくいかなかったんですね。
人の気持ちは完全には分かりっこない。何が相手にとってタブーか、察するにも限界がある。また、全てのタブーリストを予め呈示できるわけでもない。であれば、問題が生じ次第すぐに改め反映していくのが合理的だ。顔色を窺って言いたいことが言えないよりも、お互いに忌憚なく口を出し合い改正していく。それが円滑な人間関係だと。
これは理屈が通っているように思えるが・・・。
結論から申しましょう。私の「見送り・察しろ」の方針と、彼の「臨機・戒め」の方針とは、決定的に相性が悪いのです。
例えば、いよいよ彼のある点での度重なる横暴さに私が我慢ならず、「それは俺には不快だということを察してくれ」と要請したとしましょう。これは彼の方針では、「相手の不快を察すること」として条項に追加されるルールであります。
するとどうでしょうか、事あるごとに、彼がそのルールを持ち出して私を糾弾するではないですか。つまり、冒頭の「マイクロ・アグレッション」であります。「お前が言い出したルールなんだからお前も則れよ」ということらしい。確かに。言動には責任を持つべきだ。自分の感傷だけは気にかけて欲しい、というのは我がままですからね。
しかしルールを定めればお互いに我がままのない、公平な関係が出来るのか。そんなことはありません。
公平な意識がなければ、ルールは恣意的に利用されるのです。
「今のは俺の気持ちを察してなかった。お前が悪い」そう言いがかりを吹っ掛けるに留まらず、「そんなつもりで言ったんじゃないのに、不快だと思われてこっちが不快だ」「お前の個人的気持ちは察し尽くせないことを、察してくれ」なんて言われた日には、乾いた笑いが出ます。そんな児戯には付き合っていられません。
加えて、彼の方針に則り、気に障ったことをいちいち指摘する、なんてめんどくさいこと、私にはできません。仮にしたところで、↑の例の如し。なにガキみたいなこと言ってんだ、と私が言えば、「その言い方は不快」と返される。め、めんどくせえ・・・。果てしなくめんどくせえ。食い下がって最終的に相手を裁くことが出来た方が勝利者。そんな殺伐な関係ってありますか。
とりあえず殴って相手が痛がらなければよし、痛がれば、殴っていないことを証明する勝負に持ち込む。俺はそんなの嫌ですよ。
結局、同じ思考をする人間でないと通用しないのは彼の方針も同じ。私はそれに合わせる気が無いし、彼も私に合わせる気が無い。なんでも、何が相手の気に障るか、気遣うことにはキリがないから。だそうです。だからお互いに修正し合っていけばいい、ということらしいのですが、私からすると、なんでそんなにルール主義なのか不思議なのです。何故「心がけ」というものを「キリがない」と棄てるのか。
以来、彼の得意な言い回しが、「お前は気遣いというパンドラの箱を開けた。おかげで、なあなあでやってこれたものを、裁かなければならなくなった」なのですが、どうしてルールが先に立つ考えになるのか。私には理解できません。と言うと、「ほらな。所詮、人の考えを理解などできないんだよ」・・・私は、彼との関係で永遠に勝利者になれそうもありません。
そんな彼に哀愁を感じるのが、職場や交友関係での愚痴を、私に聞かせるところです。彼が経験から行きついたはずのルール主義は、場所を問わねば使えないものらしい。結局は、僕のような寛容な人間(笑)以外には、顔色を窺って話すしかないようです。
さて、こんな個人的な付き合いの話を長々としましたけれど、同じことをジンブン系の話題に感じるのです。
どうして、自分たちが好きにルールを使えると思ってしまうのか。なぜ自分に返ってくると想定しないのか。自分に適用される想定をしないから、暴力的な施行ができるのか。
私が1人の友達から学ぶことを、学者は発想できないのだろうか・・・。
ここで、いつもの三島由紀夫「不道徳教育講座」から引用。
「思うに西洋のように、権利義務の観念の発達した世の中では、物事はすべて日本よりキュークツで、人と人の関係はすべて日本よりきびしいのです。一度自分の非をみとめたら、外堀を埋められ、二度みとめたら内堀を埋められ、ついには家も財産も乗取られてしまう。西洋人は、たとえ親戚縁者、親友の間柄でも、そういう歴史をくりかえして来ましたから、生れながらに、自分の城を護るという意識と警戒心が強い。それが、「すみませんでした」という言葉を言わせない歴史的理由で、言ったらおしまいだし、全責任を自分で負わねばならない。(略)そこへ行くと日本は極楽だ。のんきなものだ。人と人との関係には、義理人情というヘンなものがあって、これのおかげで、すべての緊張が緩和されてしまいます。「すみません」「悪うございました」「私のまちがいです」「申訳ありません」とか何でもかでも、我身一つに引き受けてしまえば、却ってトクをします。下手に突っ張るよりそのほうがトクなことが、日本では多い。なぜなら「私が悪うございました」と言ってしまえば、西洋と反対に、全責任を解除されてしまうからです。(略)皆さんはどっちがいいと思いますか?(略)しかしどちらがズルイやり方かといえば、手取早くあやまってしまうほうがズルイので、「罪は人になすりつけるべし」という精神のほうが、むしろ真正直な考え方ともいえる。だって人は誰でも、内心自分が一等正しいと信じているのですから。」
今では、誰も責任を取ろうとしない、責任の取り方も分からないままに、西洋の謝った者負けの観念が輸入されて、もはや「罪を人になすりつけるしかない」日本は、日々キュークツになっておる気がします。
さて、「カスハラ」なる言葉を目にしました。
カスみたいなハラスメント・・・ではなく、カスタマーハラスメント、まあだいたい「神だと思ってる客」のことだと思って間違いはないでしょう。
ハラスメントの線引きを定めて、踏み越えた客をバンバン訴えられるようになれば平穏が訪れるのでしょうか。
早速、法律事務所がカスハラ相談に対応と謳っておりました。誰が作った言葉か知らないけど、この手の条項追加で一番嬉しいのは法関係者なんだろう、という気がします。
しかしなぜ、クソならぬカスジジイの恫喝に役場職員が付き合わなきゃならないのか。
なぜ、カスガキの迷惑行為に店が潰されなきゃならないのか。
考えるまでもなく不当なことを、ルールが定められるまで耐えなければいけない社会を誰が作ってきたのか。
そしてなぜ、カスたちが産まれるのか・・・。
少々、権利という言葉をもてあそび過ぎたのかもしれません。
人々が、専門家の託宣に拠らず、人々自身の責任において自治を果たす社会というものを考える必要がありそうです。
その自治というのが、個による告発や、個に対する晒しではなく、人の連帯意識としての安心を得る形で果たせないものだろうか。
少なくとも57年前は、義理人情なんてものが、この国に存在したらしいけど、今じゃ隣人がどんな迷惑を被ろうが知ったこっちゃなく、ただ自分の身に降りかかったときに、身を守れるハラスメントの線引きを見て安心したいらしい。
それで本当に相互監視的に平和が得られればよいのですけれど、線に届かないものを放置することにならないだろうか。
そして、そのような即効薬の処方箋は、根本的問題をまた置き去りにしてゆく。
孤独の暴発を、人とのつながりによって予防する、というのは尤もだが、
孤独というものを、寂しいとか、つながりがない状態に見做すのも不健全だろうと思う。
いったい、抵抗できない従業員に絡まなきゃならないほどの衝動が何故起こるのか。どうして駆り立てられるのか。
孤独の扱いを身に付けなかった人たちが、昨今の遠隔化社会ではじき出されたのかもしれない。
いいじゃないか孤独で。人と人とのつながりなどは、元から積極的な思い込みに過ぎないもの。その原理を弁えないから、焦って明瞭に獲得しようと行動に移す。
人は一人じゃ生きていけない♪
この使い古された歌詞に足りないのは、元来、人は一人だし、しかし真に一人にもなれないということです。
一度、レジで顔を上げてみたらどうか。町という事象に住んでいるわけじゃない。そこには人と人が居ます。(部屋の中には愛すべき蜘蛛も居るし。)人類みな兄弟、みたいなヒューマニズムのつもりはありませんが。
けれど、そこに明瞭な対人関係が感じられないと不安な人にとっては、遠隔化・自動化・無人化というのは(日常的買い物のやり取りさえなくなったらそれは)、トドメ・・・最後通告になってしまうのかもしれません。
ですから、早くつながりを回復しよう!と催促するのも、孤独ってヤバいよね。と煽るのも、どちらも危ないと思うんです。そんな危機感は暴発の元になると思う。
だったらどうすればいいのか。と問われると、私には明解に答えられませんが・・・。
慢性の病を慢性と認知することでしょうか。(曖昧ですが・・・)
私はかつて、周囲に人間が存在するだけで、その姿、視線、足音、呼吸、会話、笑い、などが全て「自分に関係されている」ように思い込み、それら全てに殺意(と言っても「死ね!」と念じるだけのカワイイものですが)を抱いていた時期がありまして、当時の私はむしろ、つながりを切らなきゃ!という方に焦っていたように思います。特に、人ごみのなかでは、金魚鉢の中にいるような感覚になったんです。歪んだガラス越しに見て、水を通して聞くみたいな。防衛反応だったのかもしれませんね。
内向的な孤独でしたけど、内向きの暴発がなくてよかったです。幸い、本もヘッドホンも蜘蛛もありましたし・・・。まだ、人ごみは苦手ですけどね。
私は孤独からさらなる孤独に逃げたのですが、孤独そのものに苛まれる人は、どこに逃げればいいんでしょうね。
それは「悪いお友達」「清いお友達」「非行」「通販」「動員」「ねっちゃりSNS」以外であって欲しい。
私みたいの(さして他人に興味がない)が、人のつながりでよりよい社会を!とか語るのは臭いのですが、”カス”の発生を文明税であるように諦観するのも気持ち悪いので。
(上記は経験を書いているだけで、何かの性質のアピールではないですよ。よくある類だと思います。
免責して欲しいとかじゃないです。)
あるいは、「自分が一等正しい」ことを、反撃されないという事実で証明し続けなければならないほどに自己形成が不十分な甘ったれか。「どこまでやっても怒られないか」の手応えを試すような・・・。そんなのは家庭内か、遅くとも高校までのワルぶりで済ませておいて欲しいですね。バカッターのティーンエイジじゃあるまいし・・・。
俺・・・?俺は実際はちょっと寂しいです。犬猫に通りがかって、かわいい~♪とか言う気分で、ネコハエとかコハナとか見て、かわいい~♪って誰かと言い合いたいようなときもあります。