おすすめ本

また言い返せなかった・・・とか
納得していないのにしてやられた感があるとか
おかしいことはわかるのに、説得できる気がしないとか。
そんなふうに言葉を頭に溜め込む人には「詭弁論理学/野崎昭弘」がおすすめだよ。
議論で言い返せない悔しさを、相手の言い分を強弁/詭弁術の分類に当てはめて、内心の気分だけでもスッキリしよう(これはマトモな議論ではないと理解する)という試みの、感情整理のヒントをくれる本だと言えるでしょう。

著者は初めに、これが強弁的議論術のハウツーとして利用されないことを望む、としています。
まさにこの本自体レッテル張りの魔力を秘めているけれども、ま、それを人に対して通せる人ならば、このような本があってもなくても変わらないでしょう。
強弁は理屈ではなく、天然で強弁が出来る精神構造か、議論に勝つために敢えて小児になり切れる度胸かが必要なのだから。
それが出来りゃあ悩みはしない。

言うだけ言っても嫌われない愛嬌とはまさに天性の才能であって、そんな天才に向かい合っても、私程度では内心「コイツアホカ」と思いつつへにゃへにゃの愛想笑いでやり過ごすくらいですから。
こういう裏のある性格を良いとは思わないが、性質的にはごり押すよりもマシな気でいます。

気持ちを引き摺らずに過ごしましょうね。


余談・愚痴

中道改革連合が新スローガンを発表したが、相変わらずボンヤリした政党だ。
まず、中道を改革するという党名からして意味を掴みかねる。
中道党なり中道民主党とでも名乗る方がシンプルでよいと思うのだが。
それでスローガンが「暮らしが、先だ。」なのだから、まるでかの「国民の生活が第一」なる党名まんまである。
前のスローガンである「生活者ファースト、くらしを真ん中へ」よりは、後半のよくわからない文句が無くなっただけ、ストレートでよいのかもしれないが。(右か左に偏った暮らしを想定しなければ出て来ない文句であるが、想定した両側のそれを正そうと何か行動したのだろうか。)

中道改革連合 公式より

「暮らしが、先だ。」

中道改革連合の新イメージポスターが完成しました。

政治は生活のためにある。
物価高、社会保障、教育、安全保障——
どの政策も、国民生活の安心につながってこそ意味があります。

今回のポスターは、クラウドファンディングでご支援いただいた皆さまの投票により決定。

生活者一人ひとりの声に向き合い、
暮らしを守る改革を、着実に前へ進めます。

国民生活につながってこその政策、というのは全く妥当な考えである。
しかしそれは正しく「国民の生活が第一」なのであって、「暮らしが先」というのは、まるで長期的目線で国民生活を守るためのあらゆる選択肢よりも、目先の生活の充実を優先するというメッセージに取られかねないし、私はそのように感じる。
暮らしの目線なら誰にだってある。
国政を担おうという国会議員が、まるで一市民の生活的視点に堕しているようなコピーは私なら選ばない。
自民党のスローガンが「列島」目線であるから、対立視点としては「国民」なのだろうことは仕方ないにせよ、これが中道的な言葉選びなのかどうかは疑問だ。

支援者の投票でポスターを決めると言うのもおかしな話で、AKBの総選挙じゃあるまいし、まあ、支援された分は支援者に還元すべきという使命感もあろうが、勢力を拡大しなければならない政党が内輪ウケの基準でメッセージを発してもしょうがないのだ。
それくらい党で決めずに、責任を誰が負うんだ、全国の支援者だろうか。
間接民主制的態度としてはそうなのだろうが・・・。
それは法案でも政策でも。
たとえ国民が諸手を挙げて歓迎したモノであろうが、それが後々に問題を起こしたときに、誰が責任を取るって、誰も取りません。議員にとっては過去の話。それを選んだ有権者は支持したことをどうせ忘れている。そしてどうせ、問題が起きた時点で、その時の政権を非難の的にして、過去の自分のケツを拭かせて満足し、どうしてそれが起きたのかは考えず、同時に何を後回しにしているのかも気付かず、そのツケを先送りにし、その清算を搾取だと言い換えるのだろう。
暮らしが先だという標語がそういうレベルに落ちないことを願う。
最低でも、「暮らしが先だ」を支持されたからやったまでです、という開き直りだけはご免だ。
「暮らしが先だとは言ったが、とはいえこれは後回しにできない」という損な役を引き受けられる人材が居ればいいのだが。
ただし、「やりたくないけど、やるんです」という涙の演出ではダメなのだが・・・。

そう考えると、この自ら手を縛るような難しいスローガンを掲げること自体、損な役回りではある。

また別のポストであるが、

「熟議なき国会で、いいのか」

国会は、数で押し切る場ではなく、 多様な声を受け止め、納得できる説明を重ねる場であるべきです。

反対のための反対でも、何でもそのまま進めるのでもなく、中身を見極め、必要な改善を求める。

いま改めて、国会のあり方が問われています。

これは、数が力であるのは最初から分かっているのだから、議席を取れということに尽きる。
無党制の議会でもあるまいし、ましてや、かつてブログで書いたような少数絶対価値観の(ようなバカげた)考えで民主制があるわけでもないのだ。
議員が納得できる説明を重ねるべきというのはその通りで、ゆえに議論によって数を覆すなら、その説明には党勢を越えて理解させるようなまっとうな筋道が必要で、並みのことではない。
しかし思い出して欲しいのだが、国民の声を受け止めて議会へ送り込むための第一段階が選挙であって、その後に輿論が反映されていくにしても、基本は政党政治であることに変わりないのだから、政党の規模が力を持つと言うのは、やはり最初から分かり切っていた話でしかない。
多数を得た党が数の力を通すのは多数の都合であるが、少数に落ちた後になって、少数の意見も漏らさず拾い上げよ、というのもまた少数の都合で言っているに過ぎない。
このような議会のあり方を今更になって、改めて問うも何もないのであるし、改めるのであれば、それこそを法案として示し、説明し、国民の選択を問うのが、立法府の在り方であるはずだ。

こんな調子だから人に納得させるだけの言語のパワーをまるで感じないのである。
だいたい、改めてこんな宣言をしてしまうと、後に数を取り得るにしても、その威力の発揮へ制限をつけることになってしまうだろう。
それはあくまで、党としての発信に後々まで同一体としての責任感が伴えばの話ではあるが。
その点で言えば、あまり離合集散と改名を繰り返すべきではないだろう。

ごり押しにしても説得にしても、議決の方法が数である以上、何にしたって最終的には数の戦いだよ。
大でも小でも数は数だ。

ああ、詭弁と言えば、日本共産党とかがお得意の、「日本を戦争ができる国にするな」というのも詭弁です。
人間をケンカが出来るようにするな、と言い換えれば分かりやすいでしょう。
現在、日本は戦争を”しない”国ですから、その反対は戦争を”する”国であるはずです。
そして極論、武器が角材とヘルメットだろうが戦争は可能なのです。それは確実に勝負にならないというだけです。
そこで、ケンカが出来ない、戦争ができないというのは、何かしら身体にそれが不可能な条件を抱えているとか、暴力を思いつくことさえ出来ないとか(どこのルドヴィコ療法だ)の話になるはずです。普通に考えれば。
ところが、「日本を戦争の出来ない国へ」などと主張しても、その能力欠損的な響きへ、一般人から支持が集まるはずはない。
また、しない国へ、ではインパクトがありません。現状がそうであるからです。
ゆえに、できる国にするな、などと回りくどい言葉を使っているのだと思います。
ケンカが出来るけど、しない。ケンガが出来るという認識によってケンカを発生させない。
これと同じで、戦争が出来るけど、しない、戦争が出来るということによって戦争を発生させない、というのが抑止の考えです。
政治家は考えを一市民の生活レベルに落とすな、とは書きましたけど、ふつうの生活レベルの視点を”持てない”のは、これもまた能力欠損です。
まあ、9条は”戦争ができない”ことを定めているのですけど、裏技的に日本は戦力を保持しています。
この公然の詭弁を続けているというのも気持ちが悪いので、”できるけど、しない”に改める方が言語的に適切だと思います。
(9条に限らず)改憲が話題になろうものなら、必ず即座に、戦争反対を訴える人たちが現れるのは、
ある部分の改憲が出来る→9条の改憲が出来る→戦争が”出来る”→戦争を”する”
というように現実が雪崩れ込むという発想によるものでしょう。
我々がそんな沸騰寸前の状態だと言うなら、その状態を分析し、なぜそうなのかを説明し、どう向き合うのかの考えを選択肢として出して欲しいものです。いつでもあらかじめ決まっている結論を持ち出すだけなら、蓄音機と変わりありませんから。
言語に責任を負わない気分的同調はまともな説得ではありません。
逆に、戦力の完全放棄をした瞬間、周辺国が日本に雪崩れ込む、というのも、本当にそうなるかはわかりません。
しかし、果たして相手がどうなるのかと、自分がどうなるのかを、同列に話すというのもおかしな話です。
アンガーマネジメントという言葉が一時期流行りましたが、次の瞬間、自分の手が出るかどうかわからないから、相手に任せようというのは、完全に病的状態です。
そんなものを信じてしまうくらいには、この国の自己認識は病んでいますが、そんな自棄的切迫感で博打をするのなら、かの党は有力な選択肢だと思います。
まあ、”する状態になる””しない状態の維持””出来ない状態になる”が選択肢に並ぶなら、真ん中しかないと思いますけど、現実にそんな単純な選択肢が並ぶわけでもなく、”出来る状態で、それが強くなる”のが、実質的に”する””しない”のどちらなのか、それとも、”出来る状態で、それが弱くなる”を選ぶのか、という状態でしょうか。
少なくとも、結果に向き合って、コントロールを続けるという意志は持ちたいですね。
ヤケは起こさずに。

中継なん見ないから分からんけど、もはや議論にならぬぞ、って状態らしいね、ホントかよ。

個人的経験だけど、相手とまともな話にならないから、ちゃんと議論をしようと言ったんだよ。

これは間違いで、説得できない苛立ちを、議論の不成立にすり替えていただけだった。とはいえ、私が間違っているとも思えませんでした。

結局はナアナアな、どっちもどっち論に決着して、私よりも我が強い分、相手の主張を通すことになるんですよね。

そんなことが毎回続くと、もはや関係よりも私の持ち出すエネルギーの方が惜しくなったので、私の方から縁を切りました。


7/27追記 エロ広告規制法案(青少年が安全にネットできる環境作り法(長いので略)の改正)ですって。

「小中学生、思春期の子どもを育てる親としてもこの問題はとても不安だと思う。表現の自由を制限するのではなく、広告が表示される先を制限して子ども達を守っていく必要がある」

ですって。
議員のポストでも、「子どもの目に触れないような表示の工夫を求めるもの」としています。
が、元々「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」がそういうものなんですよね。

リンク先で改正法案の中身を読むと、
デジタル業者に、青少年にとっての有害な情報とそれに準ずる情報についての通報窓口の設置と、通報数の公表をさせ、それを民間団体を支援して監視させると。そんな感じのようです。

先ず、準ずるって何だよと・・・。
女子高生と楽器の図=女子高生とチンポの図、と解する文筆家が居るくらいだぜ?
際限ないでしょ。何が猥褻的で何が犯罪的かとか・・・。
(そんな馬鹿な文句を付ける奴をきっと想定してないだろう。だからだめなんだよ)
やろうと思えば、片っ端から不健全だと因縁をつけることが出来る。
その妥当性を誰が評価するの。
(あらゆる、広告に限らずメディアは、それが提示するものに始まりあらゆる要素を想起させる可能性と、それらを持つ者・持たざる者は必ずいるわけですから、例えば何が狂人の劣等コンプレックスを刺激して凶行に至らせるか、わかりませんからね。きっかけをひとつ除いたところで、そんな狂人なら別の何かで暴発するでしょうけど。この手の規制についての考えの多くは、自分の嫌いなものを排除するための打算的こじつけに過ぎないと思うのです。この法案の成立可否に関わらず、この手の考え・議論は、また絶対に形を変えて現れます。ただ、その内容の妥当性の実際が何も変わらなくとも、ときどきの時勢・空気によっては通り得るのだろうと思います。そして誰も空気には責任を問えません。)

広告の閲覧防止状況の実態を第三者として監視、情報流通の実態把握・検証データの活用の促進に関する活動を行う民間団体を支援するってのも、曖昧すぎ。
どんな基準でその団体を認定すんの。促進に関する活動ってどこまでの範囲なの。
手前味噌の判定眼で遊ぶ連中が発生するとしか思えない。
第三者って立場が公平性を表すわけでもないのですし。

こんなもんへの通報(青少年有害情報についての国民からの連絡)がどんな性質のものであるかは、むしろ民間の方がよくわかっているでしょう。
通報窓口ってのは通報する人間からの意見しか存在しないのです。
今だって企業にはつまらんクレームが入るわけでしょ。
それはまだ企業の良識で対応できましょうが、この法案だと、その上流で、こんなにクレームが来てます、と公表せなならんのでしょ。
こら大変だぁって。
これだけ不健全だと言う懸念があるんです=これは不健全で悪影響があるんです、という声が湧くでしょ。
これは有害ではないよねって声をどう拾うんでしょうか。
そしてその状況の監視と集めたデータの活用なんざ、規制推進でしかないでしょ?
そんな団体は通報者に輪をかけて偏った性質を帯びるでしょうね。

それでプラットフォームがまっとうな良識に基づいて、これらの広告は有害情報とそれに準ずる情報には当たらない、という判断を公表したらどうなるのでしょう。
茶番じゃん。情報流通にひとつ余計な抵抗を設置して、民間団体とやらに金が流れる、それだけに終わるんじゃないか。
逆に、明文化しない圧力と自粛によって実質的に規制がかかるなら、不寛容は暴走するでしょう。
それで今度は規制への抵抗層から、こんな奴らの認める表現こそ有害だと報復的通報が舞い込むんじゃないの?
そして結局、誰も責任を取れず、感じず、しかし一方、せっかく出来てしまった社会にとっての良い仕組みを終わらすわけにはいかんという責任感に見せかけて、改善する腰がどこまでも重くなる。
たとえ、大多数の国民が興味を失って、実質的にこの通報と公表の義務が形骸化したとしても。

(俺は、ユーチューブは(グーグルか?)広告の審査くらいしろよ、とはずっと思ってはいますけどね。エロが嫌いなわけではなく、無意味なエロで釣ろうとする幽霊広告が、そのチープさが目障りで仕方ないからです。てのは、AIの産物なわけだが。AI広告が大嫌いなんだよねえ。人力広告では、それがワケのわからん内容とか流行のコピーであっても、特定の人の興味を釣りあげようとしておりますが、AIはそれらを参考に最大公約数的に、これで誰でも釣れるでしょ、という安直さがムカつくのです。それは安直なエロ・オタクコンテンツの、どうせこういうのが好きなんでしょ?という態度を、全領域的に広げたようなもので、クソ舐められてるとしか思えません。)

表示の工夫・表示先の制限を強化するなら、それを文字通りやらせればいいのではないか。
何かのシステムでさ。
てかやってはいるんだよね?現状。現行法で。

通報窓口の反映で防止措置をやらせるなんざ、悪い方にいくと思うんだ。
フィルタを強化するとか、アドブロックで青少年に広告を見せなきゃいい。
でもさあ、不意の情報への遭遇まで忌避するなら、ネットなんかやらせなきゃいいじゃん。
座敷牢にでも入れとけよ。
子どものためにネットがあるわけでは無いのだし。
この情報氾濫社会でネットを見なくてもいわゆる有害情報とそれに準ずる情報なんかどこでだって遭遇するだろう。
また、エロが見たくて自力で到達するなら、どうせ大人に止めることなど出来ません。
それでもなお常識的理性を保たせるのが課題でしょう。
クソガキの生配信に憧れるような人間にしないためにどうするかってんだよ。
無菌室で育てても抵抗力は育ちませんよ。
(それはタイパとか言って安い釣り方に堕していく流儀にならないような精神をどう国民全体で備えるかってことでもありますけれど。子どもは大人を見ますから、子どもだけはきれいに育てようったって無茶な話です。)
(てか、何かを検索したときに先ず”それを利用してる配信者”が結果に並ぶ方がよっぽど有害じゃねえの?つーかいかにそういう現状から必要な情報を選ぶかってのも、有効なインターネット活用のための教育でありましょう。ある年齢までのアカウントには広告を表示しないってことも、提供者の技術的にはやりゃすぐに出来ると思いますけど、まあ広告嫌いの人がサーフィン用に年齢詐称できるもんなあ。じゃあマイナンバー認証・・・?は、ないよな。)

ゲーム脳なんかも怪しいってのに、たかがネット広告の不健全情報による精神汚染の防止のために、誰が割を食うんだか。
それも、妥当性の根拠もないと来たもんだ。
あるのは大義名分だけ。
悪の芽を摘むために細部までやれるだけのことはやる、というつもりなのか?
それなら他はどうなんすかねえ・・・。健全な育成どころか死んでんじゃん、子ども・・・。

悪を滅しようと考える時、なぜそのための行いが悪に転じることはないと無邪気に考えられるのか。
善意を求めて善が敷かれるなら、そんな楽なことはありませんね。
現実がそうではないから、対応するためにこんな法案を出すんでしょう。
なら善意を疑ってかかれよ。
曖昧さが全て善の余裕になるなんてことないんだから。

まあ、これだってある種の需要供給、広告的活動ではありますやね。
求めによって規制推進をし、それによって支持の維持と拡大を図ると。
それは一部のクレーマーの声を拾うということにも通じますが。
独りも取りこぼさないとかなんとか、美辞で世界は変わりませんが、見える部分を美しく変えて世界が変わったと納得しようとすれば、現実との摩擦が起きるでしょう。

余計なことにならないといいんだけど。現行法は2008自民政権で自民提出らしいんだよね。
与党が変に便乗したりしないといいけどなぁ。

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