良心ぶった虚栄:久美 薫/京アニ放火事件はいかにしてジョン・レノン暗殺事件にすり替えられたか?

https://agora-web.jp/archives/240716064854.html

やっていることがきたないのです。
それを、言わなきゃならんから言うと、そういう態度で行うのであれば、私だって、そんなやり口がまかり通ることの不快を訴えなければなりません。

冒頭から見ていきましょう。

今日(2024年7月18日)で、京都アニメーションの放火事件より5年が経つ。あの当時はマスコミからツイッターに至るまで、半ばパニック状態で、少しでも京アニに否定的な見解を述べようものなら人でなしと袋叩きにされる空気だった。

まず、疑わなければならないのは、その否定的な見解というのが正当でありえるのかどうかです。
この事件は業務上の過失でもあるまいし、それでも防火・防災への対策が不全だったというのなら、放火殺人の被害者に対する言としては理不尽を感じるとしても、まだ認められそうなものです。
しかし、久美氏の言いたいところはそうではないらしい。

しかし時を経た今、あの事件の本当の要因について、そろそろ誰か賢人による一石が投じられても、いい頃ではないだろうか。たとえば、「“京アニは世界的に有名なアニメ会社”と当時マスコミが紹介したのは大嘘である」と。

遠まわしに賢人を自称なさっていますが、この記事に現れる久美氏の人格が賢人と評するに値するかどうかは後に回しましょう。

京アニが世界的に有名であるというのはウソである・・・これが事件の要因?これが当時の空気では言えなかったこと?
続きを見ていきましょう。

日本のアニメが世界各地でファンを開拓しているという話は1995年あたりから日本のマスコミが(間違って)報じだしていて、それが2010年代にはそれなりの市場が各地にできあがってはいたが、ハリウッド映画には遠く及ばないニッチ市場だった。

何しろ日本で放映される最新アニメ番組を、日本語を根性で学んだマニア達が、わずか数時間で各人の母語で字幕を付けてネットで無料配信(むろん違法行為だ)してくれるのでそれをお試し視聴し、気に入ったら各国でその後出る正規版を購入するという消費スタイルだ。そのため日本での最新放映には極めて感度が高い。人気作となればなおさらだ。

京アニ作品もそうやって世界に広まってはいたが、あくまで「今、ニッポンで一番ホットな逸品」「そういう大ヒット作連発のクールなスタジオ」としての認知であった。

事件当時の報道で、「京アニは世界的に有名なアニメ会社」だと扱われたのかどうか、私は記憶していないし、遡って裏を取る手間をかける気もありませんから、ここではそうであったとしましょう。
では、世界各地のアニメファンが京アニを日本で最も熱いスタジオだと認知している、という認知の度合いでは、「世界的に有名」とするには足りないのでしょうか?
ここで久美氏が問題にする「世界的に」とはどんな範囲のことなのでしょうか。
世界的な趣味のつながり・・・音楽ファンの間での世界的作曲家、野球ファンの間での世界的プレーヤー・・・と、そういうことではなく、積極的関わりのない個人たち、あまねく世界の一般人に認知されていなければ「世界的」とは言えないのでしょうか?

当の日本ではどうだったか。日曜の人気トーク番組「アッコにおまかせ」に京アニ作品の主人公の声優がゲスト出演したとき、客席から「すずみやはるひ?知らなーい」の合唱で迎えられたことに、日本のアニメファンたちは腹を立てていたが、京アニの社会的認知度は実際この程度のものだった。道行く人びと100人に問うても、おそらく98人は同じ反応だったろう。

ここでは意図的に時間を錯誤した印象の操作が行われています。つまりきたない部分ですね。

アニメファンでなくとも、このキャラクターの名前を出されては、時系列のおかしさを感じるのではありませんか?調べればわかりますが、「アッコにおまかせ」に涼宮ハルヒの声優が出演したのは2011年のことであり、放火事件の8年前です。

8年前の認知度・・・それも情報バラエティ番組の客席という偏ったサンプルに基づいた・・・を持ち出して、続く文で「そこに」と受ける、まるで時間の隔たりを無視した表し方、これが汚い欺きの手口でなくてなんなのでしょう。
まあ、ここではそれを一般的認知だったとしましょう。

それをわざわざ、道行く100人の認知へと言い換えるのは、どういうつもりなのでしょう。これは報道に毒された考え方ではないのでしょうか。まさか、報道の街頭インタビューに意図を感じ取れないナイーブ者が、その報道への自身の無邪気な信頼感には何も疑いを持たぬまま、同時に、認知度についての報道を誇大だ、大嘘だと主張するのなら、これは全くのお笑いです。

言葉の綾というものがありますから、ある人口の2パーセントだと言いたいのかもしれませんが。確かに、「有名」とするには少々苦しいかもしれませんね。

そこにあのスタジオ炎上の様が、テレビやウェブで中継された。CNNなど国際的メディアも目を向けた。彼らは日本のアニメのことなど知らないから、テレビ朝日など提携先の日本の大手メディアに問い合わせる。日本の報道メディアもアニメには疎いので「日本で今一番人気のアニメスタジオ」「大ヒット作連発」「人材育成に熱心」等のデータを機械的に(検索的というべきか)提供する。それを各国メディアの東京支局が鵜呑みにして、くだんの炎上の映像に字幕やナレーションを挿んで放映・配信する。

メディアは機械的情報を鵜呑みにする脳みそ無しのバカどもらしいですよ。

「アッコにおまかせ」は信頼のメディアですけど。

それを見たアップル社のCEOや各国最高首脳たちが、ニューヨーク911テロや、パリでの風刺雑誌社へのテロ事件の日本版と思い込んで追悼メッセージを出す。それを日本のメディアが取り上げて「世界中に衝撃が走っている」と煽る。これを日本の大衆は真に受けて、ツイッターで大騒ぎが始まる。日本の政界も踊らされて、官房長官ついには総理大臣が追悼を述べる。

こうして、アニメマニア以外にはほぼ無名であったはずの一アニメスタジオが、まるで国宝の建物が炎上したかのように大衆には刷り込まれていった。放火犯は金閣寺放火事件のあの青年僧と同じ狂人であり、少しでもこのスタジオの非を問う者は、ツイッター上で猛バッシングされた。

ここでも、各国のCEOや首脳たちが、京アニ事件を911やシャルリー・エブド襲撃の日本版だと思い込んだ、ということにしておきましょう・・・と、ちょっと待った。「思い込んで」などと、人の心中を決めつけてよいものでしょうか?
推察は結構、しかし凄惨な事件への追悼を、まるでカン違いだと一人合点するまえに、それぞれのメッセージは御覧になったのでしょうか?
報道の裏どりは手間なのでしないにせよ、今、各人のツイートを確認できる限りでは、人命の犠牲と才能の損失とを惜しむ、人によっては京アニというアニメ会社への評価もありますが、一般的な弔意に見えます。

久美氏は、たかがアニメ会社のたかが死者36名に、VIPが関心を持つのはおかしいと言いたいのでしょうか。
しかも、有名だ無名だの、認知度とは、放火事件の分析ではなく、放火事件の報道のされ方に対する分析です。
実際よりも大きく認知された京アニの有名度とは、京アニの非なのでしょうか。
そんなズレた非を問うてバッシングされるとき、疑うべきは世の認識の方ですか?

要するにもはや誰も冷静に事件を語ることができない有様だったのを、ご記憶の向きも多いと思う。

世間が事件の凄惨さ、失われた財産の重さに、心を痛めている中で、
「でも、京アニなんて100人に2人しか知らない、ただのアニメ会社でしょ?そんな有名なんかじゃないですよ。国宝みたいに扱うのは間違いですよ。」
と、焼香に冷や水をぶっかけるような言動が、当時の空気によって封じられた、本来為されるべき「冷静」な行為であったと。そういう解釈でいいんですかね?

ただ、何かを言うべき/言うべきでない常識的なタイミング、というものが、あるのだと私は思うのですが。

事件当時に、本当に上記のような発言をする者が居たら、常識的にはタイミングを逸したバカなんじゃないでしょうか。
とはいえ、そういうバカな行動に出る者こそが、尋常を逸したところの英雄であり得るというのなら、そういう考えは分かりますがね。

書きぶりからすると、久美氏は当時から空気を読んで黙っていたようだから、英雄にはなり損ねているでしょうね。
ここまでの時点で賢人とも言えないと思いますが。

以上は長い前振り。放火事件より4年近く前、同スタジオのある人気作品(の版権イラスト)について、思うところをふっとツイートしたところ、日本中より怒りを買った私(興味のある方は「男根のメタファー」でご検索いただきたい)としては、事件五周忌を機会に、あの放火について語ってみるのも悪くないと思い、以下、石を連投する。

このツイートについては知らなかったので、調べました。

こういうことらしいです。

おたく文化と児童ポルノ-posfie より

この[響け!ユーフォニアム]のアニメ第三期が終了したのが24/06/30。
記事の日付は24/07/18ですから、完結から3週弱といったタイミングです。

少なくない京アニファンが、作品の感想を言い合いつつ、あの事件があったのに完結させてくれてありがとう・・・と、京アニに感謝を述べていたタイミングだと思います。
やはり、英雄なのか。

それにしても、後の文でもこの作品に対して言及しているのだし、展開する論に関わらないでもないのだから、このツイートの概要くらいは紹介したってよかったでしょう。

このツイートによる炎上を、事件を論じるにふさわしい資格だと、自身に箔をつけているも同然なのですから。
注目のタイミングを狙ったのかは、分かりませんけどね・・・本人が書くに五周忌の機会、ということなので。

しかし、当のツイートは、恥ずかしくないという擁護なのか、恥ずかしいと難癖をつけているのか、微妙な表現ですね。

西洋人の視点が何なのでしょうか。
・だから、日本の恥ずかしい文化などなくしてしまえ。
それとも、
・だから、西洋人のカン違いだ。言わせとけ。
でしょうか?それとも、
・カン違いとは言っても、西洋との政治的力関係では、日本が憚るしかないのだから、諍いの元はなくしてしまえ。
でしょうか?

目的がわかりせんけど、日本のアニメ関係・おたく関係の立場をいたずらに悪くするような意図で論文など発表されないことを個人的には期待します。
でなければアニメ制作現場の待遇を憂いている理由がつきませんから。
それに、研究的興味のみに基づく研究があるとして、動機の潔白さと、その利用が無害であるかどうかが別なことは、おわかりでなければおかしいことです。
少なくとも、主観に飲まれた便宜的騙しはイノセントではありません。

話戻ります。

あの放火について語ってみるのも悪くないと思い、以下、石を連投する。

これは個人的感想ですが、こんな文章は嫌いです。「一石」を「連投する」だなんてたいした高ぶりです。
流石は賢人。

批判対象については時間錯誤を弄しながら、自分のツイートについては正しい時間認識を出来るところなんかも、図太いですね。

炎上の真相

あの放火炎上は、ひとことでいえば「フェアトレード運動の破綻」である。

ジョン・レノンはどこかへ行ってしまったようです。前置きとありましたからね。
「すり替え」の説明は前置きで終わりなのでしょうか。

ご承知のように、日本のアニメ産業は、労働基準法が半世紀にわたって事実上実施されておらず、しかも「クールジャパン」の国策のもと、その現状が政府によって黙認されている。その結果、年間に300タイトルを優に超える新作が量産される裏で、アニメーターに限らず制作現場の人間は目をむくような負荷を強いられている。海外発注やデジタル技術導入によっても品質を保てず、失笑ものの映像も珍しくない。

アニメ制作現場が、労働の基準からしてみれば、要するにブラック環境だという話には同意です。そこに、政府による国策の為の積極的黙認があるかどうかは、私には分かりません。
労働の実態とその監査については、ゴマカシがある、現場は無責任な経営陣に反発している、というような話を現場の人間から聞いた気がします。(私の兄です。)

しかし京都アニメーションは、業界随一の高品質を保ちつつ、従業員の福利厚生を充実させるという、極めてまれなスタジオとして、アニメファンの間では知られていた。

同社のアニメを視聴し、関連商品を購入してあげれば、そのお金は必ず制作チームの全員に公正にいきわたり、社内に育児所を設ける等の女性スタッフのことも考えた労働環境を支える一助になる…

これはフェアトレード運動の変種というところだ。「発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す運動」(ウィキペディアより)。京アニのファンとなるのは、アニメ業界全体の改善にも貢献する、崇高な消費活動でもある――大げさに聞こえるだろうがアニメファンたちは大なり小なり、そう考えていた。

私はこのような「崇高な」認識はしておりませんでしたが、私の不勉強なのでしょう。大なり小なりどころか、全く考えていませんでしたから、アニメファン失格ですね。
それも、「女性スタッフのことも考えた」ですって。

私が、世の女性の労働環境などどうだっていい、と主張するのじゃありません。
京アニのアニメを視聴することが、女性への応援になると、アニメファンは考えて、同社を買い支えていた。
という久美氏の考えが、飛躍ではないのかと言うのです。

ついでに言えば、女子キャラクターが吹奏楽をする図がフェラチオの置換だと考えたことも、今回、氏のツイートを見るまで、考えたこともありませんでした。いや、そんなこと言って、無意識下では情欲を煽られていたんだろう、と来ても構いませんがね。脳波でも取ってみますか?

京アニのファンとなるのは・・・とありますが、業界全体を、女性を応援したいなら、京アニに金を落とすのだ、なんてどれだけの人が考えていたでしょうか?好きなもののために金を使うのではないのでしょうか・・・。(女性が好きなのかもしれない)

しかし、フェアトレードだなんて意識して京アニを応援しているのは、いるんだかどうか知らないが、そりゃ相当なファンでしょう。
私みたいなライトもライト、超ライト層なんか、当然久美氏基準のアニメファンの数には入れてもらえないのでしょうけど、それならば「アニメマニア以外にはほぼ無名」はないでしょう。俺なんかアニメマニアじゃないけど知っちゃってるんだよ。でも、ファンにも大衆にも数えてもらえない。
主観的基準でなら無名とも有名じゃないとも言いたい放題ですね。

そんな基準で認知度を語ることに意味があるとは思いませんが。

皮肉なことに、日本のアニメ業界内で、京アニは必ずしも評判が良くなかった。事件より数年前、私が取材で話をうかがった、ある著名アニメ監督は「あそこが模範生ポジションを保つ裏で、業界全体にしわ寄せがきている」と嘆いていたのを思い出す。「ヒット作を出すにはとにかくいろいろ新作を出していくしかない。そのうえ京アニと同じ品質のものを作れと出資者たちからは強要される。新作乱造で人出不足のなか、腕のある者ほど酷使される」等。

京アニは、猛暑に空調をフルに回して、社内は快適だが、その廃熱によってアニメ業界全体の生態系を、むしろ乱していた。

だがそうした現実はアニメファンには見過ごされがちで、同社はブランドとしてだけでなく、ファンにとっては日本アニメ界のアップル社ともいうべきカリスマ・スタジオへと変貌していった。

カルチャーと言っても、営利産業なのだから、比較と競争はありますよね。別に皮肉でもない。
ここでの問題は、現実の制作体制を見ない出資者にあるのでは?
それを説得できずに、仕事を続けるために、イイ顔をしたくて、現場の人間を酷使する形に持っていく監督にあるのでは?

みんなで貧乏になればいいのでしょうか?みんなで協調して、「失笑」よりはマシなレベルの作品をつくっていけばいいのでしょうか?

そして、また喩え・・・メリハリが無くてうんざりしてきますね。アニメ界のアップルだなんて、氏が「思い込んで」いるのでは?
例の引き出しが貧弱かつ分かりにくいだけでしょうか。
氏の基準に当てはまるようなディープで崇高な理想を持ったファンなら、実際そう考えていたのかも知れませんけど。

他とは一歩抜きんでたクオリティーを見せている、ということには同意です。
カリスマと形容するのは我田引水のキライがあります。

日本のアニメ産業は半世紀にわたって、車線の下りを上り、上りを下るという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を業界ぐるみで続けてきた(どうしてそんな風になったのかについては、私が前に上梓したこれこれで歴史的に検証してあるのでどうかご一読いただきたい)。

「これやこれ」のリンクはそのまま。

また脱線するけれど、一つ目のリンク先にある記事で、不自然に京アニ作品を取り上げていることは注目に値します。

リンク先、[「良い作品を作ろう!」主義がもたらす弊害――日本のアニメはブラック業界]より

この記事の日付は15/06/09です。一方、画像の雑誌は14年9月号、発売日は14/08/09です。
論の発表までの準備期間と言うものはありましょうが、しかし15年に入って6月時点までの号では、京アニ作品の表紙がないんですよね。しかも15年5月号(15/04/10発売)の表紙はちょうど男性アイドルを描いた作品なのです。
ほぼ一年も京アニの表紙画像を温めていたのでしょうか?

ここから、何か京アニに対してのよからぬ意図を見出すのは、下種の勘ぐりでしょうか?

話を戻します。

また意味不明で拙い喩えですよ。

日本のアニメ産業は半世紀にわたって、車線の下りを上り、上りを下るという、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を業界ぐるみで続けてきた

車線の逆走と歩行者の信号無視とは全く別のことですよね?車道でもみんなで歩けば(しかも逆走)怖くない、としてはどうでしょう。比喩表現と慣用表現とを繋げた結果、意味が通らないなんて、何を伝えたいんだか、冷静な状態には見えませんね。

このイレギュラーな状態について政府からは黙認状態だった。なにしろ介入となると、首都高速から一般道まですべて閉鎖して物流を止めてしまうのと同じで、業界改善どころか壊滅は必至だ。日本の国策「クールジャパン」にもそぐわない。

国策のために産業の従事者を軽んじているのなら、たしかに問題でしょう。
順番としては、後から国が噛んできたのですが。
むしろ、乱造へ介入した方が個々の質も良くなるのではないかとは思います。
この道路閉鎖というのは意味がわかりません。
運送業界のブラック体質に介入・改善するなら、物流を一度完全にストップさせる必要があり(?)、現実にそんな無茶はできないし、アニメ業界もそれと同じである・・・ということなのだろうか?

京アニはというと、道路交通法を錦の旗に、正攻法を押し通した。映画『マトリックス』の第二作で、ヒーローのひとりがハイウェイをバイクで逆走するシーンがある。悪のAIが作り出した仮想現実のなかを、無数の車が押し寄せてくる。そこを彼女は、卓越した技術と反射神経によって、真正面から逆走し、すり抜けていく。

京アニの信者にとって、同社はあの映画のヒーロー達と同じだったろう。しかし他のドライバーから見れば、彼らは無謀な走り屋だった。「俺たちは好きで道交法違反してるわけじゃない。業界ぐるみでこうしないと共倒れしてしまうから、皆でこうやって回している。そこを平然と逆走していくあいつらはいったい何のつもりなんだ」

意味不明に見えるでしょう。道交法だの逆走だの走り屋だの、イメージ上の矛盾を感じても深く考えてはいけません。
要点は、業界全体の黙殺的諦念的違法操業に対して、クリーンに事業を営む京アニが台頭してしまうと、他の大多数の不正が比較されてしまってやり辛くなり、むしろ、業界全体を立ち行かなくさせる致命毒となってしまう。ということかと思います。

好意的に読み取れば、目先の部分的成功によって全体の健康を損なうのではなく、足並みを揃えて全体でしばらくの延命を図り、その上で業界ひとくくりの問題として労働の環境を改善していこうと。

だったらそう書けばいいじゃないかと思いますがね、下手な喩えなんか披露していないで。

その物流だって、暗黙的ブラック体制で延命している危機的状況にあるのは同じだ、という共通点から喩えているのかもしれませんが、私がわざわざこうして論うのは、それじゃどうしてわざわざアニメ業界の批判を選ぶんだ、ということです。
上に書いた通りです。単なる”純粋研究心”なのでしょうか?

だったらゴマカシなんかに頼らずに、純粋な文章を書いてはどうでしょうか。

傍目八目、という言葉があります。何の個人的良心も信念も思い入れもない業界ごとだから、私は冷静にぶった切れるんだと、自認があるのでしょうか?

それと、日本のサブカルは西洋目線ではポルノ、なる話ですが、

京アニのアンチにとって、西洋の基準は聖なる託宣と同じだったろう。しかし他の表現者から見れば、それらは横暴な魔女狩りだった。「俺たちは好きで規制を甘受しているわけじゃない。表現の自由を盾に奔放を通せば余計な軋轢を生むから、自主規制して回している。そこを西洋の正義に便乗して穏当な表現にまで容喙していくあいつらはいったい何を得たいんだ」

とはならないと考えるのでしょうか。

作り話ゆえの説得力

ロックのカリスマ、故デヴィッド・ボウイが「私はステージで殺されたい」とかつて名言を残したという。「現実世界が不幸なぶん、カリスマは輝く。私はステージで殺されたほうが本当はいいのだ」 と。日本のロック批評家による作り話とも言われているが、面白いので紹介する。

京アニが日本のアニメファンの間でカリスマとなったのは、日本のアニメ産業の構造的暗部の裏返しだっただけでなく、まばゆいアニメの夢想に金を費やし続ける、現代日本のポップカルチャー消費者たちのみじめな現実ゆえだった、ともいえるのではないか。

構造的暗部の裏返し、つまり業界全体がブラックだからこそ、ホワイトな京アニが輝く。繰り返しになりますが、氏が定義するファンからすればそうも見えるのでしょう。

しかし、「現代日本のポップカルチャー消費者たちのみじめな現実」と来たもんだ。不穏になってきましたね。
アニメ業界の問題と言えば結局、おたくどもの惨めさか。
現実認識としてそれはいい。夢の搾取構造とでも何とでも言うだけ言えるのですからね。

ただ、この「作り話」の引用は必要なのでしょうか?
敢えて悪意で以て解釈しますが、わざわざ「殺されたい」「殺されたほうが本当はいいのだ」などという発言を信憑性を置いてまで引く意図は、カリスマ=京アニと素直に対応させれば、これは放火殺人事件に照らした京アニ社員の心情の代弁であり、彼らにしてみれば殺されるのが本望だったのだろう、と言いたいのだと、読み取れます。
いや、善意で以て別の解釈が可能なら教えて欲しいところですが、いったいこんな試みを誰が楽しむというのか、流石は賢人の発想。
せめて、犠牲者の皆様に制作上の悔いがなかったことを祈りますとか(ふつう第三者が言うべきことじゃないが)、カリスマは時に人を凶行に至らしめるほど感情を揺さぶるのだなあ、とか、無難にフォローできないものですかね。
これは、違えたタイミングと同じように、常識的に不快なことをする、というのはそこに意図があると取るのが自然でしょう。
もう鼻持ちならないのですよ、終始こんな文章は。
それに、これこそジョン・レノンを引き合いに出すべき場所でしょう。フェードアウトですか・・・。

続けます。

京アニは、大手出版社から刊行されている人気まんがや人気ラノベを原作にするのではなく、自社で小説投稿コンテストを毎年催して、最優秀作品は自社でアニメ化すると喧伝していた。これはいってみれば企画からアニメ制作から出版から商品化までを一社で統括的に行うという、独り勝ちの王国を目指すものだった。自社ブランドを活かして、理想の労働環境とともにアニメを作っていくための高邁な目標ではあったろう。

だがそれはリスクの分散とは真逆の道だった。放火犯の履歴を見ると、幼少より、あまり幸せとはいえない道を歩かされた男のようだ。高校でブラック部活動を言葉巧みに生徒たちに強いる音楽教師(私が校長なら厳しく叱責するだろう)を美化してアニメの青春物語に昇華してみせるような、奇跡のアニメスタジオは、彼にとってはまばゆいカリスマだったろう。自分の書いた小説を、読んでもらって、それがアニメになって、原作者として知られるようになったら、どんなに幸せだろう・・・

独り勝ちの王国とか、ものは言い様ですよね。どんな言葉を使うかで、人間が知れたもんだ。認識は正しいと思います。言い様ですし。

それがリスクの分散と逆・・・ですか。むしろ経営リスクを分散しているように見えますが、多角化経営は一括で沈没するリスクも・・・と、そうじゃないんです。狂人を駆り立てるリスクの方を言っているのだ。

ほら来た、おたく犯罪者予備軍論だ。ミヤザキツトムからなんにも進んじゃいない。
つまりこういうことでしょう。

同社のアニメを視聴し、関連商品を購入する者は、アニメで描かれるような輝ける青春とは程遠い惨めな現実を消費され続ける者たちである…

これはオタクバッシングの変種というところだ。京アニのファンとなり、小説コンテストを目指すことは、叶わぬ夢に怒りを生じ、憧れを復讐心に転化させる、危険な殺人者製造活動でもある――大げさに聞こえるだろうが、久美薫は大なり小なり、そう考えていた。

事件の特殊性を評価せず、おたく狂人の凶行を一般的なリスクだと看做しているということがわかります。

ブラック部活動を強いる音楽教師を美化して青春に昇華するアニメ・・・というのは、先述の[響け!ユーフォニアム]のことです。
(細かいようだが、響け!原作は京アニのレーベルではない。)
本人的にはブラック産業を浄化して理想の労働環境へ昇華するアニメ会社、と上手くかけたつもりなのかもしれません。

何がブラックかの定義は勝手になさればよい。
しかしそれなら、著者のお好きなブラック・ジャックは違法医療を美化してドラマに昇華させたものか?
ドラゴンボールは傷害致死をエンタメ化した作品か?
なんて容易い見方なのか。

教師と生徒、それぞれの葛藤と選択は作中に描かれていたはずですが・・・。
それぞれの人物がどんな条件のもと、どんな責任を負って何を選び、何を得て何を失うか、それがドラマになるのでしょう。

(私が黄前なら、高校で吹奏楽からは離れるだろう)あるいは(ユーフォを任されることに抗っただろう)とか、
(私が部長なら、それでも滝先生の指導方は認めなかっただろう)(私が滝なら、健康と学業に影響が出ないように注意を払ったろう)とか(自分(妻)の夢を生徒に押し付けているのではないかと、もう少し悩んだろう)
とかなら、分かりますよ。
そのとき、自分だったらどんな選択が出来たろうか、と想像を膨らませるのは、人間ドラマの楽しい味わい方です。

そのとき黄前がユーフォをなし崩し的に選んでしまったから、そのとき滝が顧問だったから、そこに青春物語と評価できるようなドラマが生まれたのでしょう。
ドラマのためにそういう状況を設定したのです。
これは、奉社精神を美化してブラック労働を人間精神の美しさに昇華するとかいうのとは順序が違います。
まず吹奏楽部というブラック部活動の教師を美化するという目的があったのだ、と因縁付けるのは自然じゃありません。

それでこの付記なのですが(私が校長なら厳しく叱責するだろう)とはいったい何のつもりなのだろうか?
作中高校の校長など人物像・背景事情がろくに描かれていない端役です。
たとえ描かれていなくとも、校長という立場でどんな責任を引き受け、何が出来て何が出来ないか、何を知り得、何を知り得ないのか、何を得、何を失うのかという推察がある程度は出来るはずです。
部活動の躍進は学校評価へのプラスであり、ふつう校長としては歓迎するものでしょうし、だいたい、校長が滝を吹奏楽顧問に当て、興隆を狙ったのだとも考えられる。
そこからだろう、自分だったら、何をチェックし、何にストップをかけ、何を促すか、というのは。
そうした考えもせず(あるいは出来ず)、押しつけのブラック部活という、作中人物の意思決定をまるで無視した思い込みの状況設定に基づいて、わざわざ正義的発言を垂れる、これは、私は良いことを考える人なんです、という、ご自分の良心を褒めてもらいたさの、のぼせ上った出しゃばりでしょう。
たとえ描かれていることがブラックという判定に値するにしても、それを正確に知り得るのは視聴者として(まるで観てはいないのだろうが)の情報アドバンテージであって、そんな情報を基に、私ならこうしたろう、などと口を出すのは、まるで現実に対しての思考を伴わない、カミサマ視点のお気楽な態度です。
口だけなら何とでも言えるのです。
さすがは賢人ですね。
(こういう人ほど、異世界転生とか、不遇主人公の人生やり直し譚とかに親和性が高いと思うのだが。賢さの自称ひとつで、見下す者に対して俯瞰位置に立てるのなら、こんなに楽なことはない。)

このように意思決定と責任について考えもしないから、京アニの責任と放火殺人犯の動機を無邪気に評価できるのでしょう。
不幸な生い立ちの男の憧れを刺激しないように京アニ(に限らず、企業、あるいは個人は)振舞うべきだったのか?
狂った私が久美薫に殺意を抱いて、ガソリン抱えて自宅に突撃したら、こんな出来の悪い文章で私をムカつかせたご自分が真の要員だとお考えになるのか?
口だけなら妥当性を欠いて何とでも言えるのですよ。
物事の起こる順序・物事を起こす要因の比重の理解に、尋常離れしたものを感じます。
(チンポと絡ませたさに楽器で代替するという発想とか。)

夢は叶わなかった。憧れは怒りに変わった。そしてカリスマへの復讐心を燃やした。ガソリンを携行缶に詰めて、乗せ台でスタジオの入口ホールに運び込み、火をつけた。巨大な力と力がせめぎ合う断層の、まさにど真ん中で、爆発が起きた。長くくすぶっていた地殻エネルギーが、さらけ出されたのだった。

ノンフィクション小説でも書いてはいかがか?

繰り返される誇大も誇大・誇大表現。
過剰に犯人の悲劇性を刷り込まれているのは誰でしょう?
これでマスコミやVIPのメッセージを、大げさだと批判するのだ。
笑えもしません。

アニメの中に入る前に、犯人を叱責する想像でもしてみればどうでしょう。
お得意の心理分析で、犯行の前に更生させる可能性でも探ってみてはいかがか。
(私が親だったら、愛情を注いで立派な人物に育てたろう)

フェアトレード運動破綻とその後

コロナ禍の発生と終息を挿んで、今年1月、放火犯は京都地裁で死刑を言い渡された。最高裁まで争うことになりそうだ。

先月(6月)最終日、京アニの残されたスタッフの手で、ブラック部活動アニメの完結編最終回が放映された。主人公はその後、教師として母校に戻り、同部活動を支えていくという締めであった。ネット上には感動と称賛の声があふれた、不屈の京アニであると。

そうだろうか…

死者36名、重軽傷者32名という大惨事より早5年。ことばにならない違和が、ひねくれ者の私のなかに、今も残りつづけている。涙とともに。

暴言のようだが、ことばにならないなら、黙っていてはいかがか?

ことばにならないことばを探し表そうとする気概もないから、思い付きだけのつまらない比喩を野放図に垂れ流し、己を無頓着に棚に上げて他者の軽率さを笑い、常識的に無礼な考えの突飛さを性格のひねくれで言い訳するあげく、涙などという一文で自身の清廉さに保険をかける、安直な態度をして居られるのだろう。

提言の振りで、温めていた自説を、私にはわかっていたことだがと、事件に紐づけてうまうま、それすら振りで、自分の良心に酔った感傷作文の垂れ流し。

私にはそういう風に見えます。


リンクした記事でブラック・ジャックの引用なんかもしているが、彼こそ逆走の人である。
あの漫画でのBJと医師連盟との対立について、再び例に倣えば
「モグリを許せば医療秩序が崩壊し共倒れしてしまう、そこを平然と無免許で億でもふんだくるBJはいったいなんのつもりなんだ」
「連盟で決めた料金なんかじゃバカバカしくてやってられない、そこを法律で邪魔をしてくるやつらはいったいなんのつもりなんだ」
と表現できるだろう。
ここには、著者の仰るところの業界と京アニの関係性に似たものがあるが、法への態度は逆である。
しかしマトリックスよりは分かりやすいと思う。

隠喩だとか深く考えすぎるから、まともに伝わる比喩が出来ないのじゃないですかね。


[26/6/10]穏当ではない表現を穏当に修正、言いっぱなしの部分を具体的になるよう加筆、タイトルを一部適した表現に変更、コメント欄開設(一応、公平な双方向性のために・・・)

何で私がこんな記事を書いたかって、つまるところ釣りタイトルに釣られた情けなさへの怒りと(それだけならよかったが)、放埓な内容への批判です。
賢人の名には到底値しないような、うんざりするほどに拙劣な、自己陶酔の演出的文章を目にした苛立ちも、当然大きいのですが・・・知性と技巧は別だとかいうつもりかもしれませんが。

久美氏の主張は、要約すると、

「京アニ放火殺人は、惨めなおたくどもの青春願望を搾取するやり口によって業界内で独り儲け状態だった京アニへの因果応報で起きた事件ではあるが、制作環境にはフェミニズム的には褒められる部分もあったので、残念である。」

ということで、タイトルについては、自身が前振りだとしている通り、「メディアの情報に踊らされる奴はバカだねえ」程度のことで、さしたる意味は無かったのです。
(バカを狙って釣りあげられる自分は賢いのだ、ということなのでしょう。)

文中で誇大報道とそれを鵜呑みにする者を批判しておきながら、自身がタイトル釣りを試みている、という性悪さはもちろん、本題についても、読むほどに沸き上がるひとつひとつの不快感に、後から出来るだけ理由付けを試みたのが本記事でした。

正直、2024年時点では、あまり人の考えをバカにするような記事を書くと、「女性の労働環境」とか「涙」とかを人質にして、つまりフェミニズム(風の観点)とか、人格的感性の尊厳(をアピールするようなやり方)へと、(その正当性の自明性に)逆らうような真似をしてどうなるかわかっているのかと、黙らせられることも想像できたので、半ば恐々としていたのですが、時は移って、数々の勇気ある先達のおかげで、どうも無条件にそういうことになる、ということにはならなそうだ、というのが今の潮流ですが、安心できるものではありません。
(安心できないので、牽制のつもりでこんな文章を置くのですが。)

やはり、氏の男根主張を知ってしまった後ですと、その支離滅裂な修辞技巧を信じきった未熟な感性で、よくもまあ人の描いたものに隠喩的意図を見出してバカに出来るものだなと、思わずにはいられないのです。
それが、煩雑で大仰な文体の張り子の威力を真に受けるような読者を敢えて惑わし感服させるために行っているやり口なのだとすれば、その小賢しき性根にますますうんざりするのです。

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